秀吉「中国大返し」の謎(その9)

次に本能寺の変で信長が死んだことを知った毛利陣の反応について。

撤退後に本能寺の変を知った毛利軍は「秀吉に騙された」と激怒し、元春は羽柴軍を追撃して殲滅するべきだと主張したが、弟の隆景が反対したため、容れられなかったと言われている。

吉川元春 - Wikipedia

信長の死を知り、秀吉を追撃するべきとする吉川元春・元長父子に対し、隆景は「誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり、信長の死に乗ずるのは不祥である」と主張したため、毛利軍が羽柴軍を追撃しなかった。

小早川隆景 - Wikipedia

これは非常に有名な話であり、史実だと思っている人も多いだろう。


さらに、そこから派生して、もしも、この時毛利軍が追撃していたらという「歴史のif」を論じたり、関ヶ原合戦吉川広家が徳川に内応したのはこれが関係している云々ということを論じたりされていて、単なる歴史の一エピソードというだけではなく、その後の歴史に大きな影響を与えた重要な「分岐点」であるかのようにさえ意識されている感がある。


しかし、これは史実だろうか?

 『川角太閤記』に載った話は、いかにもありそうで面白い。つまり、この本の中の秀吉は、講和が成るやさっさと高松の陣を払って上って行ってしまうのである。「だまされた」と吉川元春、「さあ、馬を乗り殺すはこの時ぞ、全速力で追いかけよう」。ここで、小早川隆景が兄を説得する。まず天下の心懸けすべからず、それから誓書を破ることは、誓書で輝元擁立を我々に約束させた亡き父元就への裏切りである、と。

『川角太閤記』にある隆景の言葉は、のちに元春の子広家が語るところによれば、全くの嘘ではないらしいが、きれいごとすぎてそのままには信じられない。

(『秀吉戦記』 谷口克広 学研M文庫)


「隆景の言葉」について「そのままには信じられない」と谷口氏は書いている。ただし、「そのままには信じられない」は、あくまでも「隆景の言葉」が本当の理由であったかについてであって、そう発言したこと自体を否定しているわけでもないし、吉川元春の発言を否定しているわけでもないように受け取れるが、その判断で良いのだろうか?


『川角太閤記』には、

一 それより吉川駿河守元春陣屋へ小早川左衛門允隆景宍戸備前守寄合談合の次第は今日の誓紙は破りても不苦候たまかされ候ての儀にて候と吉川駿河守被申候にはか様の時にこそ馬を乗殺せよはやはやと進め給ふ事

とある。「誓紙を破り」・「馬を乗り殺せよ」とあることに注目。これについては後で検証することにして、次に『甫庵太閤記』にはこうある。

家老之面々よび集め、いかゞ有べしと評議有けり。年わかうして勇がちなる人々は、是天之与ふる幸也。打破て帰陣し、世中之躰を御見合せ宜しからんと高言を咄も多し。又心有はとかうを云ぬも半ばせり。何れを是とし、何れを非と一着まちゝなりし処に、小早川存知寄し通申上みんと、指を折て云けるは、

(『太閤記桑田忠親 新人物往来社

強硬派は「年わかうして勇がちなる人々」であり吉川元春ではない(元春は隆景の兄)。


また「打破て帰陣し、世中之躰を御見合せ」だが、この「打破て」とは誓紙を打破るということであって、秀吉軍と決戦するということではないように思う。和睦を反故にして様子を見ようということではなかろうか?だとしたら、強硬派でさえその程度であったということになる。


そう考えた上で『川角太閤記』に戻ると、「誓紙を破り」・「馬を乗り殺せよ」の「馬を乗り殺せよ」とは、戦をしようというのではなくて、破約の使者を一刻も早く出せということのようにも思えるが、その後に書かれていることを勘案すると、やはり決戦をしようということで間違いなさそうだ。しかし、さらに推測すれば、『川角太閤記』の著者がそれを直接見たわけではないのであり、元情報を著者がそう解釈してアレンジしたのだと考えられなくもない。


次に、吉川元春の子広家の書状。最も信用性の高い史料である。

 「先年備中高松の城、 太閤様お責めの刻、信長ご生害の故、当方にご和平仰せ談ぜられ、御陣打ち入られるべくの折節、紀州雑賀より、信長不慮の段、慥かに申し越し候、下々申し様は、この時手を返し矛楯に及び候はば、天下則ち時にご存分に任せらるべき所を、隆景・元春ご分別違へ候と、各申され候へ共、前日神文取り替えられ候辻」云々

(『真説 本能寺』桐野作人 学研M文庫)

「隆景・元春ご分別違へ候」だけを取り出してみれば、まるで隆景と元春の意見が異なったと「下々」が言ったと解釈できるようであり『川角太閤記』と一致する。


けれども、そうではなくて、「下々」が強硬論を主張したということだろう。下々が、この際和睦を反故にするべきであるのに、「隆景・元春様は判断を間違えている」と異議を申し立てたが、という意味ではなかろうか。


ここでも、強硬派は「下々」であり、『甫庵太閤記』同様に、吉川元春ではない。すなわち良く知られた『川角太閤記』の逸話は、史実ではない可能性が非常に高いということであると俺は思うのだが。




次に、「手を返し矛楯に及び候はば」の「手を返し」は和睦を反故にするということだが、問題は「矛楯に及び」だ。秀吉軍と決戦をすると解釈できないこともない。だけれど、和睦を反故にするということは、すなわち自動的に交戦状態に戻るということであり、四日以前の状態に戻るということだ。それを「矛楯に及び」と表現したと解釈することも可能だろう。だとすれば必ずしも決戦を意味しない。四日以前に秀吉と毛利軍とは高松城を挟んで睨み合いの状態だったからだ。

 毛利方が秀吉との和睦に応じたのは奇異にみえるが、もともと五ヶ国割譲という条件で和睦を提案していたのは毛利だった。毛利方には戦争継続の余力がなかった。境目の城を守る国衆は在番の長さに悲鳴をあげていたほどである。だから、秀吉方からの和睦提案は渡りに舟で、しかもその条件が有利だったので、それに満足したのである。

(『真説 本能寺』桐野作人 学研M文庫)

毛利軍がそのような状態であったならば、強硬派といえども、和睦を破る程度がせいぜいであり、追撃しようなどと考えていなかった可能性は非常に高いのであり、吉川広家の書状も、『甫庵太閤記』もそのように解釈すべきではないだろうか?


(つづく)