秀吉「中国大返し」の謎(その10)

秀吉が和睦の際に、輝元・元春・隆景に宛てた起請文(六月四日付)が『江系譜』という史料に掲載されている。

一、公議に対され、ご身上、お理りの儀、我等請け取り申し候条、聊か以て疎略に存ずべからざる事、

(『真説本能寺』桐野作人 学研M文庫より)

引用中の「公議」(=公儀)とは信長本人を指すと思われる。(引用同上)

この公儀というのは信長を指しているのであって、信長が生きているものとして談判を進めたことは明らかである。(高柳光壽)

「公儀」とは、この際、信長のことを指す。誓書交渉の時点でも、まだ毛利方は信長の死を知らず、秀吉もとぼけていることがわかる。(谷口克広)


「公儀=信長」ということで研究者の意見は一致している。これはその通りだろう。毛利側は信長の死を知らないので当然そう受け止めるし、秀吉もまた、毛利側がそう受け止めるだろうということを知っているはずだからだ。


しかし「公儀=信長」と明記しているわけではない。それがどうしたって話なんだけれど、秀吉が4日に毛利側に信長の死を知らせなかったと毛利側が文句を言ってきても、秀吉は「公儀が信長様のことだなんて一言も言ってないよ」って突っぱねることができるんじゃないかって話。


もちろんこれは「屁理屈」で、それで毛利側が納得するわけがないけれど、秀吉がそれで押し通せば、結局「それで納得できないんだったら合戦して決着つけようぜ」ってことになっちゃうだろうと思う。本当に合戦になっちゃったら秀吉側は困るんだけれど、実のところ毛利側も合戦を望んでいなかっただろうことは、上の記事にも少し書いた。


で、ここが俺にはよくわからないんだけれど、「誓紙を破る」ってこと。破るも何も「公儀=信長」ということなら、信長というこの世に既に存在しない相手が存在することを前提とした誓紙など、そもそも無効ではないかということ。


毛利側が信長の死を知ったあとでも和睦を反故にしないと決めたからには、改めて秀吉との間に「新しい権力との契約」をする必要があるんじゃなかろうか?原理原則としてはだけど。


だけど、そうした形跡がないってことは、つまり、4日の誓紙の「公儀」について、それを信長ではなくて、「別のもの」に解釈し直して、追認して、そのまま有効だということにしたってことなんじゃなかろうか?これについて言及しているものを見たことがないので、どう考えられているのかがわからない。


その「別のもの」とは何かってことなんだけれど、この時点で信長の後継者が決まっていたわけではない。それどころか信長の作った政権が崩壊してしまうかもしれなかったわけだ。しかし、もちろん「公儀」が天皇や将軍や、ましてや明智光秀のことじゃないことは確かだ。


ということは、やはり「公儀」は「信長政権」という、本能寺の変の後に存在しているのか、していないのかあやふやなものを指しているのだろう。しかし、それは織田家という私的な要素は小さく、公的な存在としてのものであり、「正統な政権」というニュアンスが大きいものだろうと思う。現代の言葉でいえば「政府」という言葉に近いんじゃなかろうか。


で、こういう論理は毛利との交渉のためのものだというわけではなくて、元々秀吉の思想として、あったんじゃなかろうかと思う。そして後に信長の後継者として台頭してくるのも、「公儀」というものは必ずしも織田家が引き継ぐべきとは限らないという思想が、織田家の旧臣である柴田勝家などよりも強固にあったということが影響しているんじゃないかとも思う。


おそらく徳川家康もそのような思想の元で豊臣氏から政権を奪ったのであろうし、家康が遺言で秀忠が無能だったら倒してもいいみたいなことを言ってたと思うけれど、それはできるもんならやってみろって自信があったからということもあるだろうけれど、やはりそういう思想を持っていたからなんだろうと思う。


(2/3追記)
ところで、『江系譜』に「公儀」ではなく「公議」とあるのは、古文書に通じているわけではないので、よくあることで珍しくもなんともないと言われればそれまでだけど、「議」とは「会議」とか「議論」とかの「議」で、「話し合う」って意味ですよね。一人ではなく複数の人達による「合議体」のようなものをイメージさせる。そこんんところはどうなんだろう?