秀吉「中国大返し」の謎(その7)

次に『川角太閤記』について。


川角太閤記 - Wikipedia


この史料では、本能寺の変報が最初に届いたのが三日亥の刻(午後十時)。和談成立が四日、秀吉は五日の午前二時頃に退陣出発したようになっているが、これは前にも書いたように事実は六日の午後三時頃に出発したらしい。


一方、毛利側が本能寺の変報を知ったのは、「四日の七ツさがり」で、これは桐野作人氏によると五日の午前四時過ぎ説になると考えられる。


信長の死を知った毛利陣では吉川元春小早川隆景・宍戸備前(元続)が談合し、この時、

「だまされた」と吉川元春(もとはる)、「さあ、馬を乗り殺すはこの時ぞ、全速力で追いかけよう」。ここで、小早川隆景が兄を説得する。まず天下の心懸けすべからず、それから誓書を破ることは、誓書で輝元擁立を我々に約束させた亡き父元就(もとなり)への裏切りである、と。

(『秀吉戦記 谷口克広』)

という、テレビドラマや小説等に良く採用されている有名な話が出てくる(これについてはまた後で書く予定)。


その後に、あまり知られていない話が書かれている。

一 それより毛利家へ早飛脚御立被成候今度其表におゐて陣和談と申かはし互の誓紙をかため罷上候事ふりやくの様に可被思召候へとも弓馬(の道)にはかよふの事も互の事に候と可被思召候我君信長公を明智日向守光秀無道の故により当月二日に奉討候間この上は光秀と君の弔合戦仕打死の覚悟に御座候若又拙者武運もなからへ候はゝ右の申談も候所は目出度以来は可得御意覚悟に候天下の御望尤もかと存候猶自是可得御意候吉川駿河守殿小早川左衛門允殿宍戸備前守殿えと御状に候早飛脚毛利家へ被進候それより彼渡り御越被成と相聞え申候事


姫路城へと向かう途中で秀吉は毛利に飛脚を送っているのだ。(信長の死を隠して)誓紙を交わしたのは武略(計略)みたいだけれど、弓馬の道ではこのようなことはお互い様、信長公が明智に討たれた弔合戦をして死ぬ覚悟云々。


この時『川角太閤記』の中の秀吉は既に高松を出発している。また毛利軍も退却している。そういうことになってはいるのだが、よくよく考えてみれば、『川角太閤記』における秀吉も毛利側に信長の死を知らせているのである。


この点、『甫庵太閤記』と『川角太閤記』の記事は大きく異なっているように見えて、五日に秀吉から毛利側に信長の死を伝えたという点では一致しているのである。


どういうことかと推測するに、『川角太閤記』の著者は秀吉が五日に出発したという情報と、五日に秀吉が毛利側に連絡したという情報を別個に入手して、一つにまとめたと考えるのが妥当なのではないだろうか?


(つづく)