秀吉「中国大返し」の謎(その8)

以上見てきたように、5日に秀吉と毛利側との間に交渉があったことを窺わせる史料は意外に多い。一級史料による裏付けはないけれど、歴史上の出来事がすべて載っているとは限らない。一級史料に書かれていることと矛盾しているというのであれば、優先すべきは一級史料の方であろうけれども、知る限りではそういうこともなさそうだ。


であれば、あったという可能性を積極的に否定する根拠はなさそうだ。だが歴史家は黙殺している。


秀吉が本能寺の変報を知ったのはいつかについて、『別本川太閤記』に光秀が毛利に送った使者が6月3日の夜更けに秀吉の陣に迷い込んでしまい、それを捕らえて拷問したところ手紙が見つかり、それによって知ったという話がある。これを裏付ける一級史料は存在しない。また引用されている書状は明らかな偽文書だという。しかし高柳光壽氏は、それにもかかわらず、

光秀の使者が秀吉方に捕われたというのはあったことかも知れない。

と主張している。そういうケースはままあるのであり、一級史料がないものを歴史家がすべて黙殺しているわけではないのだ(高柳氏の場合、和睦は清水宗治切腹する前に成立したと考えているから、秀吉が変報を知るのが早いほうが都合良いのである)。


それと比較して、5日に毛利側に信長の死を知らせた、合力を頼んだ、という記事の扱いの低さはどうであろう。その理由はよくわからないが、諸々の先入観によるものだろうか?


桑田忠親氏は『太閤記』(新人物往来社)の解説で、

 次に巻第三の信長公御父子之儀注進之事の条に、本能寺の変を知った秀吉が信長の訃報を毛利方に知らせたとしてあるのは誤伝であろう。それは摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にも、
 上様并殿様、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。
と述べているように、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に宣伝していたのである。

と主張している。


秀吉が信長の死を秘していたのが事実であるとして、俺の考えでは既に書いたように、『太閤記』においても、秀吉は毛利側に本能寺の変「四日」には秘していたのであり、知らせたのは五日のことである。なぜ知らせたのかといえば、他の史料とつき合わせてみれば、毛利側に知られるのは時間の問題だったからであり、四日に和睦が成立した上は隠しておくより、自ら知らせて交渉した方が得策だと考えたからであろう。現に毛利側も四日の午後には知っていたのだ。
(ちなみにここにある中川瀬兵衛(清秀)宛の書状は本当に天正十年のものなのか、天正八年のものではないのかとか個人的に多少疑問に思ったのだが、書状の全文を読んでないし、そこまで検証するのは俺には無理)



俺は、これだけの理由で否定するのは根拠として薄弱であり、もっと慎重に検証してみる価値が十分あると思えるのだ。


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あとこれは少し気になるという程度のことだけれど、『真説 本能寺』(桐野作人 学研M文庫)を読んでいて、『陰徳太平記』に、

上方勢一里許り引きたりし比、播磨の安賀の一向坊主休巴が許より、信長切腹の由告げ来りぬ、その外雑賀孫市が所、又東福寺に在りける中国の僧某、又京都の長谷川宗仁が許よりも、櫛の歯を曳くが様にこそ注進してけれ、

と書かれている。毛利軍に本能寺の変報を伝えた者の中に「長谷川宗仁」がいることに注目したい。


太閤記』その他の史料によれば、三日に秀吉に変報を伝えたのも長谷川宗仁である。宗仁は信長方の人物だ。それについて桐野氏は、

 驚くべきは、長谷川宗仁が毛利方にも注進していることである。これが事実なら、露見すれば利敵行為であろう。さすがに虚説かと思われるが、完全に否定する材料もない。宗仁は生粋の信長家臣ではなく、商人の側面をもっている。とくに先にみたように銀山への関心が強いことを考えると、近い将来、毛利領にある石見銀山などの利権を確保したいがため、毛利方に恩を売ろうとした可能性もないとはいえない。

と考察している。だが、別の可能性もあるのではなかろうか?


毛利方に注進した長谷川宗仁の使者は、三日に秀吉に注進した人物と同一であり、秀吉の指示により毛利方にも知らせたという可能性だ。これこそが、『太閤記』その他に書かれているところの秀吉が変報を毛利方に伝えたということではないか?可能性が高いとは言わないが、気になるところだ。


(つづく)