秀吉が本能寺の変を秘したという「太閤伝説」

羽柴秀吉は本能寺で信長が討たれたという情報を毛利方に伝えなかったという説が現在の主流。


ところが多くの史料には秀吉が毛利方に信長の死を知らせたと書かれている。俺は実際に秀吉は毛利方に伝えたのだろうと思う(ただし6月4日に和議を結んだ時点では知らせず5日に知らせたということ)。


しかし歴史家はそれを否定する。


なぜ否定するのかといえば「乱世に浪花節調は通用しない」(桑田忠親)とか、「正々堂々と和議を結んだ」などというのは「史料的に見れば真っ赤なウソ」(鈴木眞哉)などということらしい。


そこには、秀吉が信長の死を知らせたというのは「美談」であり、秀吉を称えるために、あるいは都合の悪いことを隠蔽するために、そのような話が作られたのだというような考えがあるように思われる


※ちなみに鈴木氏は「史料的に見れば」と言っているけれど、秀吉が毛利を騙したと書いている史料は『川角太閤記』くらいしか思いつかない。しかもその『川角太閤記』においてもよく読めば実は5日に秀吉は毛利方に知らせているのであり、吉川元春が追撃を主張したという有名な話(実はこれもより信頼できる史料では下々の者達が主張したことになっているのだが)は、4日に誓紙が交わされてから5日に秀吉から知らせがくるまでの間の出来事と解釈されるべきものだろう。『豊鑑』にも毛利方が知らなかったかのように書いてあるが、これも誓紙を交わしたときの話だ)


※ところで念のために書いておくけれど、本能寺の変を秀吉が知らせたというのがなぜ美談なのかといえば、信長の仇を取るという目標のために、眼前の敵である毛利方に信長の死を知らせて協力を頼んだから美談なのである。これを敵に隠しておけば良いものを正直に知らせたから美談なのだと考えると話がおかしな方向に進んでいってしまう(桑田氏はさすがにちゃんと理解してると思うけど)。


もちろん、この美談を額面通り受け取ることはできない。ここには秀吉を偉大に見せようとする戦略が入っていると思われる。


しかし、だからといって、実際には秀吉は毛利方に最後まで信長の死を知らせなかったのだと考えるのは短絡すぎるのではないだろうか?


諸史料が伝えるところでは、毛利方は少なくとも6月5日には本能寺の変を知っていたのだ。そして常識的に考えれば秀吉も毛利方がいずれ情報を得るだろうということがわかっていたはずだ。


秀吉さえ黙っていれば、毛利方が知ることがないというのなら、ずっと隠していればいいだろう。しかしそれは不可能だということを秀吉は十分知っていただろう。4日に誓紙を交わしたとはいえ、戦国時代において誓紙が破られることなど日常茶飯事だ。


だとすれば、秀吉方から信長の死を知らせ、秀吉に協力することの利を説いて毛利方に説得工作をすることは、ごく当然の行為である。もちろん、それで必ず毛利方が説得されるという保障はないが、やらないよりやった方がいいだろう。どっちにしろ毛利方が信長の死を知るのは時間の問題であり、実際既に知っていたのだ。それがわかっていながら、ただ毛利方の動静を見守るだけだったなんていうのは秀吉らしくない。というか愚策であるといっても過言ではないのではないか。


そして結果的に毛利は追撃しなかったし、一部史料では鉄炮や旗を貸したということになっている(鉄炮の場合、秀吉の軍備増強という意味もあるだろうが、毛利方の軍事力削減という意味もあるだろう)。


すなわちこの美談は、当たり前の行為であるものを美談に仕立てたものであると考えるべきものであろう。そういう意味でこれは実際は美談ではないということは可能だ。


ところが歴史家の主流は、この美談を否定するために、本当は秀吉は信長の死を毛利方に知らせなかったのだと全否定する。その主張は上に書いたような可能性を考慮した上でそう結論付けたものなのだろうか?そこがどうしても納得できない。