「日本人」の「中国人」観

元代以降の日本による中国軽視? 雑記帳/ウェブリブログ
実に興味深い考察。


俺はこの手のことに通じているわけではないので間違ってるところもあるかもしれないけれど、思うところを書いてみる。


日本人の中国人観という問題を考えるとき、そもそも「中国人とは何か」ということが問題になる。そういうケースで人は往々にして自分のアイデンティティーを基準にして他を推し量ることになるから、結局のところこの問題は「日本人とは何か」というところから始めなければならない。


で、我々は「日本人」をどう定義してきたかというと、俺が思うには「日本」に住んでいる人を「日本人」と定義してきたんじゃないかと思う(「日本人」という語は使っていなかっただろうし曖昧なところはあっただろうけれど)。


では、「日本」とは何かというと、近年よく日本人は「日本」というものを古来からあるものと当然のように考えていると批判されているけれど、逆に言えば「日本」は不変なものであると考えられてきたということだろう。


その源泉はといえば、イザナギイザナミの二神が大八島豊葦原瑞穂国を産み給い、天照大神の子孫がその地を統治するという日本神話に遡ることができるだろう。


もちろんこれは史実でないだけでなく、熊襲や隼人、そして蝦夷(えみし)のような「まつろわぬ人々」の存在が神話にも登場してくる。ただし彼ら「まつろわぬ人々」は、天照の子孫、すなわち天皇に支配されるべきなのに、従わない人々と定義づけされていたと考えられる。アイヌ蝦夷(えぞ)と呼ばれるけれど、彼らの住む土地(蝦夷地)は「日本」の外にあり、したがって天皇に属すべき人とは見做されていなかったと思う(江戸時代初期に松前氏がキリスト教宣教師に、ここは日本ではないので布教は自由だと言ったという話があるのもその一例だろう)。



一方、中国の皇帝が支配すべき土地は、日本のように限定されておらず、この地上世界全部が皇帝が支配する権利のある領域であり、その中で実際に支配されている領域がいわゆる「中国」の範囲だということができるだろうと思う。したがって「中国」の範囲は時代によって変化する。


日本が琉球やエゾを服属させたことを「小中華思想」と呼ぶことがあるけれど、中華思想を厳密にあてはめれば、天皇の支配すべき土地、すなわち「大八島」の内、大和朝廷が実際に支配している土地が「日本」であり、それ以外が「夷狄」の住む土地となるはずだ。中華思想では皇帝が支配権を持つ土地の外に土地は存在せず、したがって琉球蝦夷地のような土地を表現する概念は存在しないはずだ。


ここに「日本」と「中国」を同列にした時に発生する認識のズレがあるだろう。本当なら「日本」に相当するのは中国では「世界全体」であり、「中国」に相当するのは日本では天皇が支配する土地となるはずだ。



で、話が大幅にずれてきている感じがするので元に戻すと、日本人の世界観において重要となるのは(固定された)領域であり、「唐・天竺・日本」という伝統的世界観における「唐」も「唐土」というように土地のことであって、漢民族が多数住んでいるところが「中国」であるというよりも、「中国」に住んでいる人が「中国人」という観念が強いのだと思う。


そして「神国思想」において、日本は天照の子孫が統治する国であり、故に日本の民は優れているというように、日本人が「民族」の優劣を論じるときにも土地が基本になっている。この論理では「日本民族」であっても「日本」の領域外に定住するようになれば、その優越性は損なわれるということになるだろう。逆に祖先が海外からの渡来者であっても、長期間日本に定住していれば優越性を持つということになるだろう。


この考えを「中国」にもあてはめれば、中原を支配する者の出自が何であろうと「唐土」の風土に染まることによって「中国人」と見做すのであって、漢民族であるとか無いとかはほとんど関係ないだろう。それよりも日本人が中国人に優越性を抱くのは、日本が古来、神の子孫が統治するのに対して、中国では王朝がころころ変わるということであったと思われる(中国人から見ればだからどうした?という話ではあると思うけれど)。