とある史料操作の問題

史料操作の問題 - 我が九条−麗しの国日本
にインスパイアされて。


甲という史実が記述された複数の史料がある、とする。


Aタイプの史料は甲という事件が起こった時、敵に重要な情報を隠蔽したとする戦争時における赤裸々な記録である。


Bタイプの史料は甲という事件が起こった時、敵に重要な情報を明かして協力を依頼したとする、戦争時にあっても正々堂々と行動したとする記録である。


さあ、どう考えるべきだろうか。


ある業界では、甲という事件が起こった事はまず間違いないとして、Bの史料は美化のために事実を改竄しており、Aの史料が正しいと考えているのである。


問題はAとBの日付に一日のズレがあるということを無視していることだ。


俺がどう考えているか、と言えば、甲と言う事件の後にAとBの二つの出来事があった、と考えたのである。甲という事件のあと、Aという出来事があり、その翌日にBという出来事があったと解釈すれば何の矛盾もないのである。


なぜこんなことが起こったのだろうか。断っておくが、この業界はれっきとしたアカデミズムの世界である。これはアカデミズムの世界で起こっている話である。トンデモではない。しかしこう簡略化すると、トンデモにしか見えないのだが、この手の主張をしている研究者には一流の研究者が多く名前を連ねている。おかげで私にはトンデモにしか思えないこういう解釈が通説として流布しており、それに対する批判が全く見当たらない。これはこの業界の大いなる喜劇であり、悲劇でもある。


なぜこんなことになったのか。俺はこの業界に蔓延する何でもかんでも陰謀論的解釈をする体質にあると思っている。Bの史料はいかにも奇麗事を書いているように見えなくもないが、考えてみれば戦略上当然のことをしたまでだ。隠蔽しても知られるのは時間の問題だし、実際そうだったのだから隠すより明かした方が得策なのだ。しかし奇麗事(に見えること)は事実を改竄したに違いないと決め付けて信用できないとして思考停止してしまうので、このようなことがまかり通るのである。



甲に本能寺の変、Aに『川角太閤記』『豊鏡』、Bに『太閤記』『江系譜』『別本黒田家譜』を入れると話が具体的になる。なおAの『川角太閤記』は6月4日に信長の死を秘して和睦したことを記す代表的史料としてよく取り上げられるが、5日に秀吉が信長の死を伝えたことも記してあることはあまり知られていない。Aの信頼性をとにかく主張したがるとくせに、そのAの史料さえきちんと読もうとしない。あと『江系譜』では4日になっているけれども、和睦後に知らせたことになっている。


秀吉「中国大返し」の謎(その3)
秀吉「中国大返し」の謎(その4・5・6)
秀吉「中国大返し」の謎(その7・8)
中国大返し(1〜5)
中国大返し(6〜8)