秀吉「中国大返し」の謎(その5)

甫庵太閤記』の記事をどう評価すべきか?


史実では和睦は4日であるのに、甫庵は5日のこととしている。しかも、内容が史実と大きく異なっており、秀吉は信長の死を毛利方に伝えていないし、援軍を依頼してもいないのだから、出鱈目もいいところで、全く信用できない、という考え方ももちろんできる。だが、別の考え方もできるのではないか?


この記事は5日の出来事について書いているのであって、4日の出来事を誤って5日としたものではない。4日にあったとされる「史実」と異なっているのは、5日の出来事であるから当然である。即ちこれは4日の「和睦」後にあった秀吉と毛利側との交渉について書いてあるのだ、と。


あくまで、5日に秀吉と毛利側で交渉があった、少なくともそういう話が当時存在したと仮定してのことではあるけれど、そういう仮定をした上で考察してみる価値は十分あると俺は思う。



一見すると『甫庵太閤記』では4日には何事もなかったかのようにみえる。だが、5日の記事を見ると、

願は昨日之筋目聊(いさゝか)無相違(さうゐなく)被仰談(おほせはなされ)、宜しくおはしまさんや。

(『太閤記桑田忠親校訂 新人物往来社
とある。5日の「昨日」は当然4日のことだ。また、

信長公かくならせ給ふ共、最前約諾之筋目相違有まじきとの事におはしまし候条

ともある。「約諾」と書いてあることに注目する必要があるだろう。


つまりこれは、他の史料が記し、歴史家が認めるところの「4日の和睦」が成立していることを甫庵が知らなかったわけではないということではないのか。甫庵はそれを知りながら軽視して、「5日の交渉」を重視したのではないだろうか。


なぜ、そうしたのかといえば、まさに「著者独自の史観」によるものであろう。甫庵は信長の死を秘して交わされた「4日の和睦」を真の和睦であるとはみなさず、「5日の交渉」によって、その効力が発動したものとみなしたのではなかろうか。


すると問題は「5日の交渉」が実際にあったのかということになる。甫庵の捏造という可能性も一応なくはない。


(つづく)