2月22日 今日は何の日

○太子会

622(推古天皇30)年のこの日、聖徳太子斑鳩宮で薨去した。

聖徳太子ゆかりの広隆寺法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われる。

推古天皇30年2月22日という忌日は『上宮聖徳法王帝説』に記述されている日附であり、『日本書紀』では推古天皇29年2月5日となっている。

2月22日 今日は何の日〜毎日が記念日〜

享年49とされる。


後鳥羽上皇の忌日

治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日))

後鳥羽天皇 - Wikipedia

四条天皇代の延応元年(1239年)2月20日、配所にて崩御した。同年5月、『顕徳院』と諡号が贈られた。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家追号を改めることを提案し、あらためて追号後鳥羽院』の追号を贈ることとなった[3]。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が『後鳥羽院』とされた。

記事本文中には「2月20日」とある。当初『顕徳院』と諡号が贈られた。


かつて『逆説の日本史』にはまっていたときに、「徳」諡号についての記事を読んで、(『逆説』では指摘されていないことだが)「顕徳」の忌日が2月22日であることについて、何か意味があるのではないかと考えたんだけれど、未だによくわからない。入間田宣夫氏が何か指摘してたかもしれないが忘れた。


○後西院の忌日

後西天皇(ごさい てんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)、在位:承応3年11月28日(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))は、江戸時代の第111代天皇。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。花町宮。花町殿。

後西天皇 - Wikipedia


旧暦の数えでいえば、後西院は2月22日に49歳で崩御されたのである。

もっぱら学問に打ち込み、『水日集』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。治世中には伊勢神宮大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責めたと言う。もっとも、識仁親王の早期即位を望む後水尾法皇と有力外様大名仙台藩主)の従兄弟という天皇の血筋を嫌った江戸幕府双方の意向の一致が天皇の早期退位を志向し、それが「天皇不徳説」の根底にあったとの見方もある。[要出典]

上にある通り、この天皇が譲位した理由としては、災害が多発したからという説と、政治的な理由によるものとする説がある。

※「要出典」とあるが、後半はおそらく井沢説(『ダビデの星の暗号』)ではないかと思う。氏は歴史学における「呪術(宗教)的側面の無視ないしは軽視」を良く批判してる人のはずだけど。


俺はもちろん「災害多発」が理由だろうと思う。後西天皇「不徳の天皇とされ退位させられたのだろう。


で、その「不徳の天皇」が2月22日に49歳で崩御されるというのは、話が出来すぎているように思う。思うのだけれど、当然それには作為がなくてはならない。しかし作為が可能なのかとか、そのへんのところが全くわからない。ただ不思議だと思うだけ。


陸奥国から金が献上される
そして何より、2月22日は天平21(749)年に陸奥国から日本で初めて産出された黄金が献上された日でもある。これはかなり重要なことであり、この日が日本の歴史上特筆すべき日であることは間違いない。



※あと、東本願寺第十九代法主の乗如が2月22日に49歳で死去している。

延享元年 - 寛政4年2月22日
1744年 - 1792年3月14日

乗如 - Wikipedia
これはただの偶然かもしれないけど、ついでだから。


※あと、東海道四谷怪談の「お岩さん」の命日という説がある。寛永13(1636)2月22日。
妙行寺|豊島区西巣鴨にある法華宗陣門流の寺院、四谷怪談お岩さんの墓所


※あと馬琴の『兎園小説』によれば、享和3(1803)年、常陸国の「はらやとり」にうつろ舟が漂着した日でもある。


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