この前図書館で『信長公記』の研究本があったので、ちょっと見てみたら、琵琶法師に「一」の字が付く人物が多いことから、著者の太田牛一は平家語りを意識していたのではないかという衝撃的な指摘が数年前にあって云々というようなことが書いてあった。
※『織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ』(金子拓 勉誠出版 2009)だったと思う。今度また確認してみる)
遅すぎるような気もしないではないけれど、それでも歴史家がそういうことに関心を持つのはいいことだ。
俺は「いち」という名前に重大な関心を持っている。
⇒淀君は聖なる女性(その2)
⇒お市の方の「市」の意味
太田牛一の「いち」に歴史家が注目するというのが有りなら、「お市の方」の「いち」にも注目すべきだと思いますね。
さて、「いち」といえば、これも既に指摘したことだけれど、迹見首赤檮(とみのおびといちい)の「いち」にも注目するべきだ。
⇒迹見首赤檮 (その2)
さらに、那須与一の「いち」にも注目するべきだ。
⇒迹見首赤檮 (その3)
そして再び太田牛一について考えてみれば、
織田家家臣柴田勝家の下に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。1564年、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では弓をもって大活躍したという。
⇒太田牛一 - Wikipedia
とあるように、太田牛一が弓の名手であることに注目しなければならない。
これが偶然だとはとても思えない。
歴史家はこういうことにもっと敏感になるべきだと思いますね。
(3/11追記)
確認したところ、やはり『織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ』(金子拓 勉誠出版 2009)だった。
小島広次「牛一本『信長記巻首』の性格について」(『清洲町史編さん委員会、一九七〇年)という論文について、
これと関連して、注で記述されたので目立たないが、おもに「○一」と一の字をあとにつけて名乗った平家語り一方流琵琶法師にならって、牛一と名乗ったのではないかという点も意表をついたユニークな指摘であった。
と書いている。「数年前」じゃなくて40年以上前の指摘だった。あと「衝撃的な指摘」じゃなくて「意表をついたユニークな指摘」だった。