髑髏盃

迹見首赤檮の話はまだつづくけれど疲れたので明日以降。


昨日の大河で「髑髏盃」の話があったのでそのことについて。


この話は『信長公記』に載っている。ただし盃にしたとは書いていない。ウィキペディアによると『浅井三代記』に盃にしたと書いてあるそうだ。
髑髏杯 - Wikipedia

(2017/12/04追記)『浅井三代記』にそんなことは書いてない
国立国会図書館デジタルコレクション - 史籍集覧. 第6冊
ここでいう「御盃」とは「酒宴」と解釈すべき。


信長公記』は比較的信用のおける史料として、その記述がよく採用されてはいる。ただし桶狭間合戦の年が違うなど歴史史料として問題もあるとされている。


だが、それ以前に、史実であるか疑わしい伝説的要素が含まれているのではないかと思われる話も載せられている。たとえば前に書いた「蛇池」や「火起請」の話など。


信長の髑髏盃の議論でよくあるパターンは、「それって本当なの?」→「信長公記に書かれている」→「ただし盃にしたとは書いてない」→「盃にしたというのは改竄である」→「ではなぜ髑髏を披露したのか?」ときて「そんなの知るか」とか「真言立川流の影響」だとかあれこれと言われるのがお決まりのコース。


しかし、盃にしたという話は本当に改竄なのだろうか?可能性としては、盃にしたというのが「本当の伝説」であり、それではあまりにどぎついので太田牛一がマイルドに改竄したということだって有り得るではないか。


ウィキペディアに類話が載っているように、髑髏を盃にしたという話の方がメジャーであり、酒の肴にしたという話のほうがマイナーであろう。すなわち『信長公記』の髑髏の話は史実ではなく、かつ本来の盃にしたという話を削除したものだとするほうが俺にはしっくりくるのである。