秀吉「中国大返し」の謎

中国大返しとは、 Wikipediaの説明によれば、

秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。

早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀高山右近池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のため堺にいた織田信孝丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。

本能寺の変 - Wikipedia

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都・本能寺において明智光秀の謀反により殺された(本能寺の変)。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。

豐臣秀吉 - Wikipedia


テレビの歴史ドラマや歴史番組で(数えたことはないけれど年に数回は)何らかの形でネタにされている超有名な話。


で、何が「謎」なのかというと、「本能寺の変の黒幕は秀吉か」みたいな飛躍した話じゃなくて、オーソドックスな話として、秀吉が本能寺の変報を聞いて毛利方と和睦して、京へ向かうまでの経過が(俺には)よくわからないという話。



秀吉が本能寺の変報をいつ知ったのかについては、6月2日説、3日説、4日説があるが、3日であろうというのが大方の意見。それはいい。問題なのはそれ以降。


高松城清水宗治が城兵の助命を条件に切腹したのが6月4日の午前。先に引用したWikipediaには、
「早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。」
高松城城主・清水宗治切腹を条件にして毛利輝元と講和し」
とある。これは、つまり6月3日に変報を知った秀吉は、その日の内に毛利と和睦し、その結果、清水宗治切腹したということだろう。


これの元ネタはおそらく、高柳光壽氏の研究によるもので、『本能寺の変』(学研M文庫)には、

そんなところへ、六月三日の晩本能寺の変報が秀吉のもとに達したのであった。そこで秀吉は安国寺恵瓊を招いて講和の斡旋に当らせ、結局、城兵の命を助けて宗治に腹を切らせることとし、備中・美作・伯耆などを毛利氏から織田氏に割譲するという条件で講和が成立した。この講和の成立時間は明白でないが、おそらくは三日の夜遅くなってであったろうと思う。

と書かれている。


ところが、谷口克広氏は、『秀吉戦記』(学研M文庫)で、

 しかし、高柳氏はここで基本的な誤りをおかしているのではないかと思う。高柳氏の考えでは、毛利氏との和睦成立後、宗治の切腹があったということだが、そうではない。秀吉は宗治を切腹させた後、最後の和睦交渉に入るのである。秀吉方の『浅野家文書』『天正記』、毛利方の『毛利家日記』でも、文脈から推してそのように受け取れる。

と、書いている。つまり「和睦→清水宗治切腹」ではなくて、「清水宗治切腹→和睦」だというのだ。


しかし、 Wikipediaだけではなく、「朝日日本歴史人物事典」を見ても、

秀吉はその事実を隠したまま毛利の使僧安国寺恵瓊に講和を急がせ,宗治ひとりを切腹させることで急遽講和が結ばれた。
小和田哲男

清水宗治 とは - コトバンク
とある。


俺は谷口説が正しいと思うけれど、世間で受け入れられているようにはみえない(ちなみに『秀吉戦記』(学研M文庫)は2001年初版だが、1996年発行の集英社本を文庫化したもので、14年前に発表された)。というか、これについて論じられているのを俺は他で見たことがない。谷口説は認められないということなのか、それとも関心がないということなのかも不明。「謎」…



(つづくかも)

本能寺の変―戦史ドキュメント (学研M文庫)

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戦史ドキュメント 秀吉戦記 (学研M文庫)

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