聖徳太子記事関連まとめ (その2)

聖徳太子記事関連まとめ - 国家鮟鱇
ここに書いた俺の推理を、日本書紀の編纂者視点で再構成すると以下のようになる。


日本書紀の原史料には、「推古天皇の伝記」と「聖徳太子の伝記」があった。
・「推古天皇の伝記」には「先帝」が任那復興・新羅出兵計画を立てた途端に病で急死したとあった。
・「聖徳太子の伝記」には「先帝」が仏教に帰依した途端に病で急死したとあった。
・「推古天皇の伝記」では「先帝」は推古の夫であり、「聖徳太子の伝記」では太子の父であった。
・「先帝」が同一人物だとすると、推古は太子の母ということになるが、「聖徳太子の伝記」では母が大王であることを窺わせるものは一切なかった。
・したがって「推古天皇の伝記の先帝」と「聖徳太子の伝記の先帝」は別人であるとの結論が導き出された。


・一方、「先帝」と考えられる大王の伝記では、皇位が誰に継承されたのかという具体的なことがわからなかった。
・さらに、宣化天皇推古天皇の間に在位したと思われる大王の伝記は一種類しか存在しなかったが、それでは「先帝」の在位期間が長すぎると考えられ、失われた大王の記録が推測された。
・「先帝の伝記」には似てはいるが細部の異なる異説があり、どちらが「本物」であるか見極めることは困難であった。


・一方、蘇我氏の系譜によると、この時代に稲目と馬子の二人の大臣が存在し、両者の仕えた大王が異なっていることを窺わせる記録もあった。
・そこで、「先帝の伝記」の異説と考えられるものは、似てはいるが同一の大王の伝記ではなく、実は二人の大王の伝記であると考え、稲目が仕えたと考えられる大王を「欽明」、馬子が仕えたと考えられる大王を「敏達」として、異説を振り分けた。


・この段階では「敏達」から「推古」への継承ということになるが、それでは聖徳太子の父の「先帝」が宙に浮いてしまう。
・そこで、「敏達」と「推古」の間に聖徳太子の父が即位したのだと考えて、「用明」を挿入した。
・だが、今度は「推古天皇の伝記」にある「朝鮮出兵計画と急死」が宙に浮いてしまう。
・「推古天皇の伝記」あるいは「聖徳太子の伝記」または「ある本」に、この時期に蘇我馬子に殺害された皇子の記録があった。
・書紀編纂者は、この皇子は実は即位していて「推古天皇の伝記」にある「先帝」とはこの皇子のことであると考え「崇峻」を挿入し、「推古天皇の伝記」にある朝鮮出兵計画をこの天皇の事績とした。


・これによって、一応問題は解決したかに見えたが、2年間のズレ(ぴったり用明の即位期間に相当する)がある等の年齢上の矛盾は解消できずに残ってしまった。無論、書紀編纂者はそのことを自覚していた。
・しかし、これ以上どうすることもできず、解決を後世の人物に委ね、矛盾は矛盾として糊塗せずに残した。


というのが俺の推理。