推古天皇の年齢問題(その1)

欽明
(三十二年)夏四月十五日、天皇は病に臥せられた。
この月、天皇はついに大殿に崩御された。時に年若干。


敏達
四年一月九日、息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。
冬十一月、皇后広姫が薨じられた。


五年春三月十日、役人が皇后を立てられるよう申し上げた。そこで詔して豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)を立てて皇后とした。
(十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。「推古紀」)


(十四年)秋八月十五日、天皇は病が重くなり大殿で崩御された。
(三十四歳のとき、敏達天皇崩御された。「推古紀」)
(甲辰の年の四月六日に、崩りましき。 「古事記」)西暦584年(敏達十三年)。


用明
(二年四月)九日、天皇は大殿で崩御された。
(丁未の年の四月十五日に崩りましき。「古事記」)西暦587年。
※(推古元年)(夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とされ、国政をすべて任せられた。「推古紀」)


崇峻
(二年)六月七日、蘇我馬子宿禰らは、炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛に詔して、「お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」と命じた。

八月二日、炊屋姫尊と群臣が、天皇に勧めて即位の礼を行った。


(五年)十一月三日、馬子宿禰は(中略)天皇を弑したてまつった。
(三十九歳、崇峻天皇の五年十一月、天皇(崇峻)は大臣馬子宿禰のため弑せられ、皇位は空いた。「推古紀」)
(五年)(冬十二月八日、皇后は豊浦宮において即位された。「推古紀」)
(壬子の年の十一月十三日に崩りましき。「古事記」)西暦592年。


推古
(三十六年三月)七日、天皇崩御された − 年七十五歳。
(天の下治しめすこと卅七歳なりき。戊子の年の三月十五日、癸丑の日に崩りましき。「古事記」)西暦628年。


※引用:『全現代語訳日本書紀』(宇治谷孟 講談社)・『古事記(下)全訳注(次田真幸 講談社