聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)
ところで、この合戦はどこであったかというと、『書紀』に「渋河」に物部守屋の家があったと記されている。また「河内の阿都」という地名も出てくる。現在の大阪府八尾市にあったと考えられている。
この伝説に関わるとされる史跡は多いが特に有名なのが大聖勝軍寺。
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。
ここからが本題。
戦勝祈願が成就して、聖徳太子は四天王寺、蘇我馬子は法興寺を建立したと『書紀』は伝える。その四天王寺と法興寺(飛鳥寺)を直線で結ぶと、その直線上に大聖勝軍寺が位置する(若干ずれるけれど)。
より大きな地図で 大聖勝軍寺 を表示
(「より大きな地図で」のリンクをクリック)
これは偶然だろうか?
もし偶然でないとすれば、「飛鳥」と「河内の阿都」の位置は動かせないので、四天王寺の配置はここから導き出されたようにも思える。ただしこれは『書紀』の記述が史実だとした場合で、そうでないとすれば別の可能性も考えられるかもしれない。
(なお、既に誰か指摘しているか検索してみたけれど見当たらないので、いつものように俺のトンデモ話)