聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その1)

俺が厩戸皇子とキリストの関係を否定するのに、なぜキリストが馬小屋で生まれていないということを主張しないのかという素朴な疑問を持っていることは既に書いた。


それとは別に聖徳太子研究について大いに疑問に思っていることがある。もちろん俺はド素人だから、俺から見ると非常に疑問に思われ、こう考えたほうが合理的ではないかと考えることでも、専門家が見れば、そんな考えは全く成り立たないと一蹴されてしまう話なのかもしれない。


ずっと前から気になっていて、その疑問に対する答えはないものかと探していたけれど未だに見つからない。今回、馬小屋の件が専門家の方の調査のきっかけになったということもあるし、これを機会に書いてみたい。


その最大の素朴な疑問とは、物部守屋を滅ぼした戦いにおいて、厩戸皇子は諸皇子の三番目に過ぎなかった」というのは正しい理解なのかということ。


これが現在の定説のようで『国史大辞典』の四天王寺の項にもそう書いてあったと思う。


聖徳太子研究の最前線」にも、

 それはともかく、合戦があって馬子が勝ったとする『日本書紀』を信ずることにした場合、『日本書紀』のその箇所には、馬子は「泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子難波皇子春日皇子」などの皇子たちや有力な豪族たちとともに軍勢を率いて戦った、と書かれています。これは「歴史的事実」なのでしょうか。ほかの皇子が参戦したのは事実であって、ようやく三番目に名前が出てきた厩戸皇子の部分だけ捏造なのでしょうか。『日本書紀』では、厩戸皇子は「随軍後(軍の後に随へり)」と記されているのみであって、軍陣の先頭に立って勇敢に戦った、などとはまったく書かれていませんが。

大山誠一説における仏教理解の問題点 - 聖徳太子研究の最前線
と書いてある。


俺が大山誠一説を支持していないことは既に何回か書いたけれど、この点に関しては納得していない(ただし大山氏にしてもそれを指摘していないらしいのは定説が正しいと考えているからなのだろう)。


思うに、現在の聖徳太子研究では、太子が五皇子の三番目にすぎないことをもって、この太子の事績は虚飾であるという説と、逆にその部分に改竄を加えず三番目と正直に書いてあることをもって真実性があるとする説に分かれているのではなかろうか。


しかし、俺は上に書いたように、そもそも「書紀は太子が五皇子の三番目だということを主張していない。それどころか書紀は太子こそ最重要人物だとしている」のではないかと思うのだ。これが俺が前々から、というかこの「定説」を最初に知った瞬間から現在に至るまで持ち続けている「最大の疑問」である。



というのも、この話が史実を反映しているか否かはともかく、これを純粋に「物語」として読んだ場合、この「物語」の主役が厩戸皇子、準主役が蘇我馬子であることは間違いないと思うからであり、故に厩戸皇子の位置づけも諸皇子の三番目に過ぎないなどということはないと考えるからである。


詳細については次の記事で。