ドラえもんは実在しないが のび太は実在する

つづき


清水書院の歴史教科書が「聖徳太子は実在したか」と題したコラムを載せたという件に関して俺は全く評価しない。こんなものは歴史の面白さを知ることよりもトンデモさんを養成することに利があるだろう。


日本史教科書が書くべきことはこんなことではなくて『日本書紀』という史料について書くべきだ


聖徳太子の事績は『日本書紀』が根本史料である。だが、そこに書いてある憲法十七条や冠位十二階といった施策が事実であるとするのは問題がある。すなわち『日本書紀』の信頼性に問題があるということだ。


日本書紀』に問題があるのだとしたら、聖徳太子の実在だけが問題なのではない。推古天皇蘇我馬子物部守屋やその他すべての人物に問題があるということだ。


聖徳太子については、「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」などの他の史料で実在が確認できるとされた時期があったが現在ではそれらも疑問視されている。だが「実在を確認できるとされた史料が信用できないのだから実在しないのだ」と簡単に言うことはできない。


なぜならば、それは『日本書紀』の登場人物の中で他の史料で実在を確認できる稀有な存在だった人物が、実はそれほど確かな存在ではなかったという話だからだ。


聖徳太子にだけスポットライトを当てて考えれば、それは聖徳太子の実在を疑わせる十分な証拠ということも不可能ではないかもしれない。しかし、推古天皇蘇我馬子物部守屋やその他すべての人物との兼ね合いを考えてみれば、実在を確認できる人物から、彼らをすっ飛ばして実在しない人物に急転落するというのは妙な話ではないか(用命・推古天皇は太子と同様に光背銘文に登場するということにされてたけど)。


あるいはこういうことかもしれない。聖徳太子は『日本書紀』推古紀において「超人」のように描写されている特別な存在だ。単に誇張されただけではなく実在しなかったのだ。馬子や守屋は普通の人間だから実在を疑う必要はないのだと。


しかし、だったら漫画やアニメの「ドラえもん」のドラえもんは現実に存在するはずがないから非実在だが、のび太は普通の小学生だから実在するのだという理屈も成り立つのではないか?


もっとも妥当な判断は「『日本書紀』という史料は信頼性に乏しい」ということだ。その中で特に聖徳太子だけが疑わしい」とするには余程の理論の構築が必要なのだ。


大山誠一氏の主張がそれを満たしているとは俺には到底みえない。ましてやネットでは実に単純明快に実在を否定してそれを疑う者をを嘲笑するような人間も多数いるが笑われるべきは彼らである。


聖徳太子も、蘇我馬子物部守屋推古天皇も用命天皇もその他の登場人物も等しく疑わしい」とするのが妥当な判断であろう。


さて、ここでひとつの考えが浮かんでくる。


日本書紀』は信頼性に乏しい史料であるから教科書に採用すべきではないという考えである。


日本書紀』(や『古事記』)を採用しないとすれば、この時代の文字史料といえば鉄剣銘などごく僅かなものに限られ、あとは考古学史料のみとなる。それで歴史が叙述できないかといえばそんなことはない。したがってその可能性を考える余地は十分にあるのだ。


しかしながら、現在の歴史教育においては記紀史料が採用されているし、それを止めようというのも大きな声ではない。そしてこれが別にだめだというつもりもない。ただ一般に学校の日本史教育は新発見や新研究により書き換えられることがあっても、基本的に現行のように記紀史料を採用するのが当然であると考えられているところがあるのではないかと思うのである。それがあまりにも当たり前であるが故に「聖徳太子だけが非実在」みたいな不思議な反応が出てくるのではないだろうか?



※ 教科書には「聖徳太子だけ」とは書いてないとはいえ、聖徳太子だけを取り上げればそう受け止められるのである。「憲法十七条や冠位十二階といった施策は太子の実績と断定できない」としたら、問題提起すべきは「聖徳太子は実在したか」ではなくて「日本書紀は信用できるか」という大きな問いであり、信用できないのだとしたら全く無視すべきなのか、それでも歴史を考える上で価値があるとすべきなのかということを考えさせることであろう。