木幡山(1)

倭姫王の歌の謎はまだ続く。

一書に曰(い)はく、近江天皇(あふみのすめらみこと)の聖体不与にして御病(みやまひ)急(には)かなる時、大后の奉献(たてまつ)る御歌一首
一四八 青旗(あおはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは 目には見れども直に会はぬかも

「木幡」は「小旗」ではなく地名だという考えが現在の主流。それはその通りだと俺も思う。「青旗」は枕詞であり、他に「青旗の葛木山に」、「青旗の忍坂の山は」などの用例がある。だから「木幡」も「山」に違いない。問題は、その「木幡の山」がどこかということになる。研究者はどう考えてきたのか。「木幡」地名説を唱えている人の言説を調べてみる。


以下は、
私設万葉文庫
より引用。


○木村正辞、萬葉集美夫君志〔近〕(首巻、巻一、巻二、別記) 
「木幡は、御陵所の山科に近き處なれば、かくのたまへるなり」


○金子元臣、萬葉集評釋
天智天皇の御陵はおなじ山科の鏡山にある。今こそ木幡は山科の最南部の一地名となつてゐるが、當時は大津街道まで進出してゐた汎い名稱であつたかも知れない。」


斎藤茂吉、萬葉秀歌
「『木幡』は地名、山城の木幡《こはた》で、天智天皇の御陵のある山科《やましな》に近く、古くは、『山科の木幡《こはた》の山を馬はあれど』(卷十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云つた。天皇の御陵の邊を見つつ詠まれたものであらう。」


井上通泰萬葉集新考(巻一〜巻十) 
「案ずるに木旗は契沖の云へる如く地名にて即今の山城の木幡ならむ。」


以上の内、井上通泰を除いた三名は、明らかに天智天皇陵のある「山科」を念頭に置いている。それは「なぜ木幡なのか」という理由を考えたとき、思い当たるものが天智天皇陵しかないということがあるのだろう。だが、もちろん天智天皇の生前に山科に陵墓はなかった。彼らがこの歌を天皇崩御後の歌だとした理由の一つはここにあるのだろう。


しかし、本当に「木幡」の地名が出てくるのは、山科に天智天皇陵があり、木幡が近くであったからなのだろうか?天智天皇陵(鏡山)の上を天智の魂が行き来しているというのなら、「鏡山」を指す言葉を使えば良いはず。いくら近くにあるからといって「木幡」を使う必要があるだろうか。そもそも契沖の説に従うならば、「木幡」は「山」でなければならないのだが、その肝心の部分をごまかしている(ようにみえる)。


一方、井上道泰はこの歌を天皇崩御後の歌だという点では他の三人と同じだが、木幡は「山城の木幡」であるとし、それ以上、天智天皇陵と繋げようとはしていない。そして、「井上通泰萬葉集追攷」では、はっきりと、「木幡」は「木幡山」だと書いている(こっちには天智陵の西南に当るとは書いてあるが)


俺も「木幡」は「木幡山」のことだと考える。


(なお、斎藤茂吉は、万葉集の、「山科の木幡の山を馬はあれど徒歩(かち)より我が来し汝(な)を思ひかねて」という歌に関しては、木幡山のことだとしている。「斎藤茂吉、萬葉秀歌」)