木幡山(2)

もはや誰も読んでいないだろう。でも続ける。トンデモ度はさらにアップ。


「木幡」は「木幡山」のことだ。素直に考えればそうなる。しかし、倭姫王は「雷」を見たというのが俺の考えだが、さすがに近江からは木幡方面に落雷があったということはわかっても「木幡山」に落ちたということまではわかるはずがない。通説の「天智の魂が行き来している」ではなおさら、近江から見えるはずがない。


「見えた」のではなく「感じた」のだとしても、そもそも「木幡山」と天智天皇との関わりがわからない。だから、研究者の多くは、山科の天智天皇陵との関係を念頭に置き、「木幡」が天智陵の近くにあるとし「木幡山」を無視した。それでも天智の生前の歌だとすれば天智陵は存在しないので崩御後の歌だとした。この推理はかなり強引だが、そう解釈するより他に解釈しようがないということだろう。


しかし、繰り返しになるが、素直に考えれば「木幡」は「木幡山」と考えるのが自然だ。だが天智と木幡山の関係がわからない。とはいえ、わからないからといって、強引に別の解釈をするのが適切なことなのだろうか?


今まで説明してこなかったが「木幡山」は現在、別の名で呼ばれ、誰でも知っている有名な山。現在は「桃山」と呼ばれている。安土桃山時代の「桃山」だ。「桃山」というのは江戸時代に桃の名所だったことから、そう呼ばれるようになった。「伏見山」とも呼ばれる。「私設万葉文庫」の「井上通泰萬葉集追攷」によると、伏見山の「峠より東」が木幡山であるが、古くは全山を木幡山と云ったかもしれないとのことだ。


その「木幡山」と天智天皇に何の関係があるのだろうか?それが謎なわけだが、しかし、俺には思い当たることがある。それは既に何度も指摘してきたことだが、比叡山延暦寺天智天皇陵と桃山の桓武天皇陵(の候補地、すなわち伏見城跡)が一直線に並んでいるということ。


桓武天皇天智天皇の曾孫。その陵墓が延暦寺と天智陵を結んだ直線上にあるというのは偶然ではないというのが俺の考えなのだが、天智天皇の皇后が「木幡山」と天智天皇を結びつけて考えていたとしたら、既にこの時点で、このラインが認識されていた可能性がある。すると最初にラインがあり、その上に天智陵、延暦寺、そして桓武陵が造られたという可能性が出てくる。


もちろん、こんなトンデモな考えには誰もついてこられないだろうが、それにしても天智陵と天智に繋がる古代の「聖地」には「奇妙な偶然の一致」が多いと改めて思うのである。



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