応神天皇と気比大神

応神天皇気比神宮の祭神、去来紗別神(いざさわけのかみ)と名前を交換したというのは割と有名な話。

ところが『日本書紀』には以下のように書いてある。

ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国(こしのくに)においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊と名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名を去来紗別尊ということになる。けれどもそういった記録はなくまだつまびらかでない。

(『全現代語訳 日本書紀』 宇治谷孟 講談社


原文ではこう。

一云。初天皇為太子。行于越国。拝祭角鹿笥飯大神。時大神与太子名相易。故号大神曰去来紗別神。太子名誉田別尊。然則可謂大神本名誉田別神。太子元名去来紗別尊。然無所見也。未詳。

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というわけで、『日本書紀』の編者は、この説を疑っている。というのも応神天皇の名は誉田(ほむた)であり、それは天皇が生まれた時に、腕の上に盛り上がった肉があって、それが鞆(ほんだ)のようであったからだというのが「正式な伝承」であるからだ。名前を交換したという話はこれと矛盾しているのであり、編者が疑うのは尤もなことだ。このような「正史」にとって都合の悪い話は抹殺してしまえば良さそうなものだが、そうしないところに、俺は書紀編纂の「誠実さ」を感じるのだ。


で、この「正史」とは異なる伝承だけど、もちろんこれは伝説であって「事実」であるとは到底思えない。同一の伝説の中で矛盾があるのならともかく、異なる伝説を比較した時に矛盾していたとしても、それぞれが独立している(現代風に言えばパラレルワールド)のだから、それぞれ別個に考えればいいわけで、どっちが正しくて、どっちが間違っているというような性格のものではない。と考えることができなくもない。


ただ、不思議なのは『古事記』の方で、皇太子の応神が、建内宿禰(たけしうちのすくね)と敦賀に行ったとき、建内宿禰の夢に伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおおかみのみこと)が現れて、「吾が名を御子の名に変えたい」と告げて、それを承知したという話があること。


古事記』での応神天皇の名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)、亦の名は品陀和気命(ほむだわけのみこと)。大鞆和気というのは、生まれた時に、鞆(とも)のような肉が腕にあったから。『書紀』では鞆(ほんだ)のような肉があったから誉田(ほむた)。同じ話のようでいて、「鞆」の読みが違っているだけでなく、「人名」の違いとなっているというのは、たとえていえば、五月に生まれた同一人物を、一方は「サツキ」と呼び、もう一方は「メイ」と呼んでいるかのようで非常に興味深いのだけど、そのことは置いといて、『古事記』においても、応神天皇の名前である「大鞆和気」というのは最初からそうであったと受け取るしかない。ところが、その名前を交換したのなら、「大鞆和気」は天皇の名ではなく神の名前ということになってしまう。しかし、そのような説明は一切ない。


さらに不思議なのが、皇太子と伊奢沙和気が名前を交換することを建内宿禰が承知したら、神は明日の朝、浜に行けという。贈り物をしたいという。そこで翌日皇太子が浜に行くと、鼻の傷ついた海豚が現れた。それを見た皇太子が「我に御食(みけ)を下さった」と言った。それで神を「御食津大神(みけつおおかみ)と名付けた。今は「気比大神」と言う。とある。何が不思議かって、神は前の日に皇太子と名前を交換して新しい名になったばかりだというのに、今度は皇太子に名前を付けてもらったとあること。常識的に考えておかしな話ではないか(神話に常識は通用しないと考えることもできるかもしれないけれど)。


俺が咄嗟に思ったのは、この話の原型は、神が皇太子に名前を付けて欲しいと頼んで、皇太子が「御食津大神」と名付けたという話であって、「名前の交換」という話は後に何かの間違いで「別の話」が混入してしまったのではないかということ。そのくらいのことは誰かが考えただろうと思うのだが、意外にもネットでは見つけることができない(探し方が悪いのかもしれないけれど)。


勉強不足でわからないところが一杯あるんだけれど、『古事記』の記事でもって、応神天皇と伊奢沙和気大神之命が名前を交換したという(何らかの事実や政治的状況を反映した)「伝説」があったと判断しちゃって良いのだろうかと疑問に思うし、ましてや、それを疑うことなく採用して、古代の王朝についてあれこれ考察しちゃって大丈夫なんだろうかと思う今日この頃。