「大王」≒「天皇」なのか (その3)

「大王」≒「天皇」なのか (その2)


天皇」は「大王」を継承したものではなくて「皇太子」の役割を継承した可能性があるのではないかというのが前回の要約。「皇太子」とは「皇位継承の第一順位にある皇子」なのは言うまでもない。だから「天皇≒皇太子」などというのはヘンテコな話だし、もちろんそういうことを言いたいのではない。


しかし、天武朝以前の「皇太子」はただの「皇位継承第一順位にある皇子」ではない。


聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)は推古天皇の皇太子であり、摂政であった。


中大兄皇子天智天皇)は皇極天皇四年(大化元年・645)に孝徳天皇の皇太子となった。「大化の改新」の中心人物とされている。


なお、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智の代で「皇太子」と書かれているのはこの二人だけだ(皇極天皇元年11月に「皇太子」とあるのは天智のことだろうか)。


また、舒明天皇3年に開別皇子(天智)が東宮と記され、また天智天皇8年、同10年
正月に大海人皇子(天武)が東宮大皇弟」と記されている。


また、天武記に天智天皇元年に「東宮」となった(天命開別天皇元年立為東宮とある。なお書紀によれば天智が天皇に即位したのは天智天皇7年(あるいは6年)であり、それ以前は天智が皇太子という称号で記されている。
(天智元年に天智が皇太子で天武が東宮となってしまう。天命開別天皇元年を天智天皇7年とすれば一応矛盾はしないけれど)


なお、大友皇子太政大臣天智天皇10年正月)。


そして、大海人皇子(天武)は「(太政大臣大友皇子」を倒して天皇に即位したのだ。


天皇(大王)を倒したとは書いていない。それは一般的には、大友皇子天皇に即位していたことを隠蔽したのだとか、大友皇子天皇に即位していなかったが事実上の天皇であった(称制)とか、倭姫王が即位したが隠蔽されたとか言われている。


いずれにしろ、これらは大海人皇子の目的が天皇(もしくは事実上の天皇)を倒すことだったということを前提としているのだ(ここでいう「天皇」とは「大王」のこと。ややこしい)。


しかし、そうではなくて、大海人皇子の目的は、文字通り皇子としての大友皇子を倒すことであった(書紀を素直に読めばそうなるが)だったとすれば、見方は大きく違ってくるのである。


すなわち、大海人皇子天皇(大王)を倒して自分が大王となり、称号を天皇と改めたのではなく、大友皇子を倒して大友皇子の役割を継承したのではないかということだ。そして、その大友皇子が担っていた役割を表現するのに「天皇」という称号を使用したのではないかということだ。


つまり、俺が言いたいのは、

推古→舒明→皇極→孝徳→斉明→天智→(倭姫王)

までが「大王」(旧・天皇)の系譜であり、

聖徳太子中大兄皇子大海人皇子→(大友皇子)→大海人皇子(天武)

が実質的な『天皇』の系譜ではないのかということだ。


(つづく)