「大王」≒「天皇」なのか(その4)

「大王」≒「天皇」なのか(その3)

推古→舒明→皇極→孝徳→斉明→天智→(倭姫王)

までが「大王」(旧・天皇)の系譜であり、

聖徳太子中大兄皇子大海人皇子→(大友皇子)→大海人皇子(天武)

が実質的な『天皇』の系譜なのではないかというのが前回の要点。


このように考えると古代史の見方が大きく変わってくるのである。


天智天皇10年、病の重くなった天智は東宮大海人皇子)を呼び寄せ後の事は汝に任せる(以後事属汝)と言われた。しかし大海人は固辞して受けなかった。そして、大業は皇后に政治は大友皇子に授けてください(請奉洪業、付属大后。令大友王、奉宣諸政)(願陛下挙天下附皇后。仍立大友皇子)と言い、自身は出家すると答えた。


大海人皇子が「天皇(大王)」の座を欲していたのなら、この時素直に受ければ良かったのだ。なぜ大海人はこの時辞退したのだろうか?よく目にするのが、天智は本音では大友皇子に後を継がせたかったということであり、つまり大海人は空気を読んで辞退した、さらには身の危険を感じて辞退したということだ。


しかし、そうではない可能性がある。


すなわち「皇太子大海人皇子」は「天皇(大王)」に即位することを本心から望んでいなかったという可能性だ。


なぜなら、実質的な権力は「皇太子」が握っており、この時代の「天皇(大王)」は名目的な地位に過ぎず、「天皇(大王)」に即位することは、すなわち皇太子としての権力を手放すことになるのではないかと考えるからだ。そして、大海人が「天皇(大王)」に即位すると、皇太子にはおそらく大友皇子がなるであろう。


つまり天智天皇大海人皇子に求めたのは、「天皇(大王)」という最高権力者の後継者になれということではなくて、「皇太子」という実質的な最高権力者の地位を大友皇子に譲れということではなかったか(建前上は昇格だが実質的には引退ということは現在でも良くある話)。


そもそも天智天皇自身が皇太子として何度も「天皇(大王)」に即位する機会があったのに即位しなかったのである。さらに言えば皇太子厩戸皇子天皇に即位していない(推古天皇より先に死んだからという一応合理的な解釈は可能だけれど)。


(つづく)