羅城門

服藤早苗『古代・中世の芸能と買売春』 - 大村雑記録 - Yahoo!ブログ
服藤早苗氏が最新論文(『歴史学研究』11月号?)で大村拓生氏を批判して大村氏がそれに反論していて、何やら(やじ馬的には)面白そうなことになっている。けれど俺はこの分野に興味はあっても知識はない。知識はないけど興味はある。というわけで、少しネットで調べてみようかと検索してすぐにヒットした記事を見て、興味は別のことに移ってしまった。ここからが本題…


『寛平御遺誡』という史料がある。

寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)とは、寛平9年7月3日(897年8月4日)に宇多天皇醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置。

寛平御遺誡 - Wikipedia


そこに桓武天皇について

造羅城門。巡幸覧之。即仰工匠曰。此門高可減五寸云々。後又幸覧之。即喚工匠何如。工匠云。既減。帝歎曰。悔不加五寸。工匠聞之。 伏地絶息。帝奇問。工匠良久蘇息。即云。実不減。然而為有煩詐言耳。帝宥其罪。

寛平御遺誡(相撲評論家之頁)
という記述がある。「天皇が羅城門を造らせたとき、巡行してこれをご覧になって工匠に門の高さを5寸減らすように仰せになった。後にまた巡幸してご覧になったとき、工匠を呼んでたずねたところ工匠は既に高さを減らしましたと答えた」ここまでは問題ない。


だが「帝歎曰。悔不加五寸」がよくわからない。「天皇は5寸を加えなかったのを悔やんで嘆いた」という意味だが、その後を読めばわかるけど実は工匠は命令に従わず高さは元のままだった。


これについて保立道久氏は『中世の女の一生』という本の中で「もうあと五寸低くしておくんだった」と解釈しているらしい(順番としては最初に書いた件で検索しててすぐにヒットしたページにこれが書いてあって興味がこっちに移ってしまったということ)。


「悔不加五寸」が「もうあと五寸低くしておくんだった」とは、最初に5寸減らせと命じたけれど、減らしてもまだ5寸高かった。5寸+5寸=1尺減らすよう命じればよかったということ。で、実際は減らしてないのだから、5寸減らせという最初の命令は正しかったということになる。保立氏はこの話で「そびえ立つ門楼の高さを五寸きざみで看取する神通力のような王の能力」が示されていると解釈しているそうだ。


しかし不思議である。5寸(約15cm)の違いがわかる天皇が、なぜ実際は高さが減らされてなかったのに、それを工匠が告白するまで気付かなかったのか?と。疑問はまだある。天皇は命令に従わず、なおかつ天皇に対し減らしたとウソをついた工匠の罪をなぜ許したのか?また「此門高可減五寸云々」とあって、次に「悔不加五寸」とあって「減」「加」という対照的な語を使ってるのに、後者の「加」を「さらに減らす」という意味で使ってるというのも不審だ。


この点なかなか納得がいかないのだ。


「悔不加五寸」というのは、工匠が5寸減らしたというのを聞いて「元の方が良かった(5寸加えておけばよかった)」と言ったという意味ではないのか?つまり桓武天皇は神通力を持っているどころか目が節穴だったということではないのか?そのことに気付いたから天皇は工匠の罪を許したのではないのか?


あと思うのは史料の名前は『寛平御遺誡』であり、当然「遺誡」が書いてあるんだけれど、この部分に関しては

是等語故太政大臣旧説也。雖不可追習。為存旧事附状末耳。

とあるんで遺誡では無いと思われ、また桓武天皇を賛美するためのものでも無いと思われ。ただし、それに近い史実があったとしても、まるっきりの事実だったとも思えないので、何らかの教訓話だった可能性はある。で教訓らしきものがあったのだとしたら、それは「餅は餅屋」的な意味ではないのかと。あるいは「帝王たるものは細かいことにまで口出ししてはいけない」的な意味だったのではないかと思えて仕方ないのである。



なお京都市歴史資料舘の解説によれば

 宇多天皇の『寛平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)や『宇治大納言物語』(うじだいなごんものがたり)『世継物語』(よつぎものがたり)には,羅城門創建時の話が伝えられています。

 巡行中の桓武天皇(かんむてんのう)が,工匠(たくみ)に羅城門の高さを五寸減ずべきことを命じ,再度の巡行で工匠に聞いたところ,すでに減じたと答えました。それを聞いた天皇が後悔しているのを見た工匠は失神しました。そこで理由を問いただすと,実は天皇の命に従っていなかったと告白したため,天皇はその罪を許したというものです。

 工匠の腕と天皇の目の確かさを示す逸話として伝えられたものですが,危惧するほどに羅城門が高かったことから生まれた話と考えられます。

都市史05 羅城門 - 京都市
とある。


ここにある『宇治大納言物語』『世継物語』のうち『宇治大納言物語』は現存せず、鎌倉・室町期の諸所に内容の一部分が散見するという。そこに羅城門のことが書かれていると思われるがネット上では見つけられなかった。『世継物語』とは鎌倉時代の説話集『小世継物語』のことと思われ、こっちはネット上にあった。
世継物語(続群書類従)_Taiju's Notebook


俺の適当な訳によれば、桓武天皇長岡京から造営中の平安京を視察に行ったとき、羅城門を見て、この門はよく出来ているけれども丈を1尺切るべきである。風が速いので土地では危険である。防ぐためには土地柄を考えて高さを考えるべきなのに近頃の工匠はそれを知らないで建てたので、一尺切るのが良いとおっしゃって長岡京に帰った。天皇平安京が完成して遷都が近付いたので再び視察した。羅城門もほぼ完成していた。天皇は工匠を呼んで、前に1尺切れと言ったけれど1尺5寸切らすべきだった。あと5寸切りなさい、まだ高いように見えるとおっしゃった。それを聞いた工匠は、体を地に投げ出して転げ回り、恐れ震えているので怪しいと思い、いかがしたと問うたところ、この門の丈は「本の門(平城京の門?)」と同じに建てたのに1尺切れと命令されました。それでは低くなってしまい、遠くから見上げて高やかにあるべきなのに見苦しいことになってしまうと思い、5寸だけ切りました。今あと5寸切れというのは最初に誤ったのではなくて、5寸偽って切らなかったからです。天皇は理解して、今から切っていたのでは遷都に間に合わないのでこのままにしよう、ただし風があれば吹き倒されるかもしれないとおっしゃった。工匠はこの門は頑丈に作ってある上に5寸切ったので更に危険なことはございませんと答えた。遷都の後、三度吹き倒されたので天皇の予想は当たった。(天皇は)物の上手だと伝えられている。円融天皇の時にまた倒れて、その後は作られなかった。とある。


『寛平御遺誡』の「悔不加五寸」が「もうあと五寸低くしておくんだった」という意味だと解釈されるのは、これが根拠の一つになっているのだろう。『世継物語』の話が『寛平御遺誡』の話が発展したものだとすれば、鎌倉時代にそういう解釈があったということはいえるだろう。また『寛平御遺誡』の話は宇多天皇が「故太政大臣藤原基経)」から聞いた話だけれど、『世継物語』がそれとは別に語り継がれてきたものだったとしたら、この解釈が正しい可能性が高いということになるだろう。


しかし、本来の話が変わってしまったという可能性も否定できないだろう