『将門記』託宣のド素人の素朴な疑問(その3)

(その2)


平将門が「新皇」と称したのは現天皇に取って変わろうとしたのか、「分国の王」のつもりだったのか?

この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく「分国の王」程度のつもりであったと思われる。

なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない[5]。

新皇 - Wikipedia



当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く』とあるけれど、これは大陸での事例を検証した上でそう言っているのだろうか?そこまで言及してくれないと本当に「当然」なのか俺には判断できない。また朝廷の慣習を踏襲してはならないという理由も無いように思われる。


もし将門が天皇に取って変わろうと考えており、かつ朝廷の慣習を踏襲していたのだとすれば、常陸守や上総守などは「将門王朝の親王が任じられるべきものだということになる。その記録が無いことからみて、空席だったということになるだろう。


すると問題は「上野守」だ


朝廷の慣習を踏襲したのなら、上野国も守ではなく介を任命すべきはずだ。ところが将門は上野守に多治経明という人物を任命している。


ウィキペディアの注に

海音寺潮五郎は『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している。

とあるように、将門が上野国親王任国であることを知らないで、守を任命したのだと考えれば一応説明はつく。しかしそれではあまりにも将門が無知すぎないだろうか?


他の可能性はないかといえば、一つだけあるように思われる。


それは多治経明親王扱いされているという可能性だ。その場合は常陸守や上総守が空席であり、将門親族でさえ親王扱いされていないことから考えて、多治経明という人物が破格の待遇を受けているということを意味する。


しかし多治経明という人物についての情報はほとんど無いに等しい。
多治経明 - Wikipedia


彼は一体何者なのだろうか?


(つづく)