『将門記』託宣のド素人の素朴な疑問(その4)

(その3)


将門新皇の王朝で上野守に任命された多治経明とは一体何者か?


ウィキペディアの説明を見てもほとんどわからない。
多治経明 - Wikipedia


ところで俺は多治経明という名前を知って真っ先に思い浮かべた人物がいる。


その人の名は「多治比文子(たじひのあやこ)」。ついこの前取り上げたばかりだから思い浮かべるのは当然だ。
多治比文子 とは - コトバンク

延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。

北野天満宮 - Wikipedia


ここには多治比文子が「少女」だとあるが「菅原道真の乳母」という説もある。「多治」は「丹治・丹比・丹治比・多治比」等とも書く。
多治比氏 - Wikipedia


ここで気になるのが、多治比文子の託宣(942年)の3年前にあった平将門皇位を授けるという巫女の託宣だ(939年)。


上野国に現れた巫女も多治氏の女性だったのではなかろうか?さらにいえば、この巫女こそ誰あろう多治比文子だったのではなかろうか?文子が少女だったら可能性は低いかもしれないが、菅原道真の乳母だったとしたら有り得るのではなかろうか?


菅原道真三男の菅原景行は東国にいた。将門と親交があったとも言われている。この景行に文子が同行していた可能性が十分あるのではないか?
すがわら
景行がが道真の遺骨を真壁に祀ったのが929年。この「天満宮」の創建にも文子が関わっているのではないか?
大生郷天満宮


もし巫女が文子だったとすれば、託宣に菅原道真の霊魂が出てくる謎を解く鍵となるだろう。


この巫女は将門王朝成立の最大の功労者であるともいえる。とすれば、それに報いるために多治比文子に連なる多治氏の人物が親王待遇で上野守に任命された可能性があるのではなかろうか?


(つづく)


※ ところで大阪の多治速比売神社の祭神は「多治速比売命 配 素盞嗚尊、菅原道真蔵王権現」。
多治速比売神社 tajihaya
ここも何か意味ありげ。