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現在宮内庁が指定する桓武天皇陵は疑問視されている。真の桓武陵については複数の説があるが、その中で有力なのが、伏見城築造の際に削平されてしまったというもの。
その桓武陵候補地が、
② 桓武天皇の曽祖父(春日宮天皇の父)である天智天皇陵と、桓武により国家鎮護の道場とされた比叡山延暦寺根本中堂の三点は一つの直線で結ぶことができる。
ということまでは前に書いた(カテゴリーの「方位信仰」をクリックすれば今まで書いた記事が見れます)。
これだけでも「偶然」とするには出来すぎている話だと思うけれど、比叡山と天智天皇陵を結んだ直線の先に桓武陵があるのと同様、三井寺と天智天皇陵を結んだ直線の先に、桓武の子である淳和天皇の火葬所がある(淳和天皇の遺骨は散骨され明治時代その場所に陵墓が造られた。以前はこっちが「御陵」だった)。
その淳和天皇の名は「大伴」。一方、三井寺は「大友氏」や「大友皇子」と縁のある寺。「おおとも」について調べてみると奇妙に「新羅」と関わりがあり、また、新羅王子のアメノヒボコ及び、その末裔の神功皇后・応神天皇(八幡神)が関わっている。応神天皇の名は「大鞆和気命(おおともわけのみこと)」。
神功皇后が新羅王子の末裔だというのは「三韓征伐」の正当性を主張しているものだというのが俺の推理。桓武天皇の母が百済王族の末裔であることを主張するのも新羅に対抗するためだろう。
そして、明・朝鮮連合軍と戦闘した秀吉が、桓武陵の地に伏見城を築いたのも、それらのことを知っていた(または再発見した)秀吉の意図によるものだろうというのが俺の考え。秀吉が死後、「新八幡」の神号を望んだといわれるのも、単に八幡が武士の守り神であるというだけではなく、この文脈で考えるべきではなかろうか。
そして、この三井寺と天智天皇陵、淳和天皇火葬所をつなぐライン上に豊臣秀吉の廟所がある。つまり、延暦寺と天智陵を結んだ先に伏見城があり、秀吉はそこで死に、遺骸は三井寺と天智陵を結んだ先に葬られているということ。
いつものようにGoogleマップを作成。「大きな地図で見る」をクリックすれば詳細がわかります。
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(追記:09/04/05)
秀吉は阿弥陀ヶ峰の「中腹」(現在は太閤平と呼ばれている場所)に埋葬されたというが、現在の豊国廟は頂上にある。明治の改葬の時に移転されたのものか?詳細不明。なぜ元は頂上ではなかったのか?まさに、このラインと関係があるのではないのか?
⇒豊国神社(京都市観光文化情報システム)
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(春日宮天皇妃陵-春日宮天皇陵墓-春日宮天皇妃陵-桓武天皇陵)
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⇒桓武天皇陵はここだ!(まとめ)
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⇒目次(3)桓武天皇陵はここだ!
(しばらく、この記事をトップに表示しておきます。5/16-)