『日本書紀』などは本来の「正史」とは異なるものなのに、なぜ「正史」と呼ばれるのか?
大宝・養老の令の国史は、職員令の中務卿の職掌に、「国史を監修す」とあり、図書頭の職掌に、「国史を修撰す」とあるのが、まず目につく。これは明らかに書物としての国史であるが、その国史とはどういう意味に使われているのか。令集解の古記には、
国史とは当時の事記す書の名なり。春秋・漢書の類の如し。実録のことなり。
とあるが、当時とはいつのことにも解せられるし、春秋や漢書を実録ということも、厳密な用法ではないから、この説明は的確なものどはいえない。
令集解では春秋・漢書が「実録」であり、それが国史だといっている。もちろん誤りだ。なおここでいう「国史」とは坂本太郎によれば「遠い昔の歴史ではなく、現代の記録である」ということで、今の「国史」の意味とは異なる。
とあり、これは『日本書紀』のことと考えられている。その他の例から坂本太郎は
これらの例で、奈良時代から平安時代初めにかけれ、日本書紀・続日本紀などを国史と称することが一般に行なわれたことは、ほぼ確かであるとしてよい。そして、この用例は後世長く行なわれて、今日まで続いている。六国史という名称が行なわれるのも、もちろんこの意味の用法にもとづくものである。
と言っている。つづけて
なお、近代になって、国史の意味には、書物をはなれて出来事としての歴史という意味が加わった。この場合の国史は日本史というと同義であり、それに従って国史学・国史料・国史書というような熟語が使われるが、それは国史のまた別の意味とすべきである。
という。それはともかく、日本では「国史」という用語が一般的だったといえるだろう。
ところで本書には岩橋小弥太の説が載っている。
平安時代の公事の書である本朝月令・政事要略の類が六国史を引用する場合、日本書紀の文はつねに「日本紀云」として引くが、続日本紀以下の書の文は「国史云」として引く。そこで、日本書紀は国史の中に含まれていなかったと考えられる。その理由は、国史は令に定められたような、その時その時の記録であって、唐の起居注・実録にあたり、日本紀は前代の史であって、唐の正史に相当するからである。この区別をみとめて使いわけているのであって、国史と日本書紀とを混同するのは、考えのいたらぬものだというのである
坂本太郎はこれに異を唱え、それは慣例としてそうなっていたに過ぎず「日本書紀は国史の中にはいるべきである」としている。俺もそう思う。
しかし、注目すべきはそこではなくて、岩橋小弥太が「国史は令に定められたような、その時その時の記録であって、唐の起居注・実録にあたり、日本紀は前代の史であって、唐の正史に相当する」と主張しているところだ。
つまり日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録のうち日本書紀だけが「前代の史」であるから「正史」であり、その他は「起居注・実録」にあたるから「国史」だということになるだろう。
「日本書紀」は養老4年(720年)に完成。第44代元正天皇の時代。書紀は第41代持統天皇の時代までを扱う。
「続日本紀」は延暦16年(797年)完成。第50代桓武天皇の延暦10年(791年)までを扱うが、桓武は延暦25年まで在位している。
「日本後紀」は承和7年(840年)に完成。天長10年(833年)までを扱う。淳和天皇の在位も833年まで。ただし編纂を命じられたのは弘仁10年(819年)。
「続日本後紀」は貞観11年(869年)に完成。第54代仁明天皇の時代を扱う。第55代文徳天皇が編纂を命じた。
「日本文徳天皇実録」は元慶3年(879年)に完成。第56代清和天皇が命じた。
「日本三代実録」は延喜元年(901年)に成立。清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の代を扱う。第59代宇多天皇が命じた。
「続日本紀」と「日本後紀」は天皇在位中に編纂を命じたもの。「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」は次の代の天皇が前の代の天皇の記録の編纂を命じたもの。後の二つは「実録」と明記してある。
肝心の『日本書紀』が「前代の史であって、唐の正史に相当する」というのがどういう意味なのかよくわからない。日本は万世一系であるからして「前代」というのが前の王朝という意味ではないだろう。いわゆる天智系・天武系のことかと一瞬思ったけれど、それなら区切りは光仁・桓武になる。「前代」というのは相当昔の天皇を扱っているという意味か?
(まだ続ける予定)