「正史」(その4)

日本書紀』などは本来の「正史」とは異なるものなのに、なぜ「正史」と呼ばれるのか?


六国史』(坂本太郎著作集第三巻 吉川弘文館)より、

 大宝・養老の令の国史は、職員令の中務卿職掌に、「国史を監修す」とあり、図書頭の職掌に、「国史を修撰す」とあるのが、まず目につく。これは明らかに書物としての国史であるが、その国史とはどういう意味に使われているのか。令集解の古記には、
  国史とは当時の事記す書の名なり。春秋・漢書の類の如し。実録のことなり。
とあるが、当時とはいつのことにも解せられるし、春秋や漢書を実録ということも、厳密な用法ではないから、この説明は的確なものどはいえない。

令集解では春秋・漢書が「実録」であり、それが国史だといっている。もちろん誤りだ。なおここでいう「国史」とは坂本太郎によれば「遠い昔の歴史ではなく、現代の記録である」ということで、今の「国史」の意味とは異なる。



次に、『続日本紀和銅七年二月十日の条に

 従六位上朝臣清人正八位下三宅臣藤麻呂に詔して、国史を撰ばしむ。

とあり、これは『日本書紀』のことと考えられている。その他の例から坂本太郎

これらの例で、奈良時代から平安時代初めにかけれ、日本書紀続日本紀などを国史と称することが一般に行なわれたことは、ほぼ確かであるとしてよい。そして、この用例は後世長く行なわれて、今日まで続いている。六国史という名称が行なわれるのも、もちろんこの意味の用法にもとづくものである。

と言っている。つづけて

 なお、近代になって、国史の意味には、書物をはなれて出来事としての歴史という意味が加わった。この場合の国史は日本史というと同義であり、それに従って国史学国史料・国史書というような熟語が使われるが、それは国史のまた別の意味とすべきである。

という。それはともかく、日本では国史」という用語が一般的だったといえるだろう。



ところで本書には岩橋小弥太の説が載っている。

平安時代の公事の書である本朝月令・政事要略の類が六国史を引用する場合、日本書紀の文はつねに「日本紀云」として引くが、続日本紀以下の書の文は「国史云」として引く。そこで、日本書紀国史の中に含まれていなかったと考えられる。その理由は、国史は令に定められたような、その時その時の記録であって、唐の起居注・実録にあたり、日本紀は前代の史であって、唐の正史に相当するからである。この区別をみとめて使いわけているのであって、国史日本書紀とを混同するのは、考えのいたらぬものだというのである

坂本太郎はこれに異を唱え、それは慣例としてそうなっていたに過ぎず「日本書紀国史の中にはいるべきである」としている。俺もそう思う。


しかし、注目すべきはそこではなくて、岩橋小弥太が国史は令に定められたような、その時その時の記録であって、唐の起居注・実録にあたり、日本紀は前代の史であって、唐の正史に相当する」と主張しているところだ。


つまり日本書紀続日本紀日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録日本三代実録のうち日本書紀だけが「前代の史」であるから「正史」であり、その他は「起居注・実録」にあたるから「国史」だということになるだろう。


日本書紀」は養老4年(720年)に完成。第44代元正天皇の時代。書紀は第41代持統天皇の時代までを扱う。


続日本紀」は延暦16年(797年)完成。第50代桓武天皇延暦10年(791年)までを扱うが、桓武延暦25年まで在位している。


日本後紀」は承和7年(840年)に完成。天長10年(833年)までを扱う。淳和天皇の在位も833年まで。ただし編纂を命じられたのは弘仁10年(819年)。


続日本後紀」は貞観11年(869年)に完成。第54代仁明天皇の時代を扱う。第55代文徳天皇が編纂を命じた。


日本文徳天皇実録」は元慶3年(879年)に完成。第56代清和天皇が命じた。


日本三代実録」は延喜元年(901年)に成立。清和天皇陽成天皇光孝天皇の代を扱う。第59代宇多天皇が命じた。


続日本紀」と「日本後紀」は天皇在位中に編纂を命じたもの。「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」は次の代の天皇が前の代の天皇の記録の編纂を命じたもの。後の二つは「実録」と明記してある。


肝心の『日本書紀』が「前代の史であって、唐の正史に相当する」というのがどういう意味なのかよくわからない。日本は万世一系であるからして「前代」というのが前の王朝という意味ではないだろう。いわゆる天智系・天武系のことかと一瞬思ったけれど、それなら区切りは光仁桓武になる。「前代」というのは相当昔の天皇を扱っているという意味か?


(まだ続ける予定)