敏達天皇は実在するのか?(その2)

敏達天皇は実在するのか?
のつづき。


敏達天皇欽明天皇の死は似ている。微妙に異なるがほぼ同じと言ってもよい。似ているのはそこだけではない。日本書紀では仏教は欽明13年、百済聖明王が伝えたとしている。ところが同じ日本書紀の敏達13年にも仏教が「伝来」している。百済から来た鹿深臣が弥勒菩薩の石像一体をもたらし、佐伯連も仏像一体をもってきた。それを蘇我馬子が請い受け云々。そして「仏法の広まりはここから始まった」(『全現代語訳日本書紀講談社)とある(原文では「仏法之初、自茲而作」)。


欽明13年と敏達13年、同じ「13年」に日本に仏教が伝来したという記事が重複している。これは多くの人が指摘していることだが、さまざまな説がある。俺は、最初に「大王の13年に渡来した」という伝説があり、それが発達して複数のバージョンが誕生したのだと思う。だから元は同じであって、一方が真なら他方は偽であり、本来両立するものではない。しかし日本書紀編纂の時点では、既にどちらが「真」であるのかわからなくなっていたので、苦肉の策として、両方を別の話として併記したのであろう。なお、ここでいう「真」とは、「神話の原型に近い」という意味であって、「事実」という意味ではない。


しかし、異説があって、どちらが「真」なのかわからないとしても、それを一人の天皇の伝記に記し、両論併記するというやり方だってあるし、実際『書紀』ではそうしているところもある。そうしなかったのはなぜかといえば、そもそも、この時代の天皇(大王)に関する伝説が混沌としていたからではないか。欽明・敏達の時代の伝説には異伝が多数存在したのであろう。それらを「統一」することは困難を極めた。おそらく、この時代に「大王」が何人いたのかさえ明確でなかったのではなかろうか。


ここで、注目すべきは、蘇我稲目蘇我馬子。稲目は欽明天皇の大臣。三十一年に死去(欽明天皇は三十二年に崩御)。馬子は敏達元年に大臣となる。稲目・馬子の交代と、欽明・敏達の交代がほぼ重なる。それをどう解釈すべきか。俺はこれこそが、この時代に大王が二人いたということの根拠となったのではなかろうかと思う。つまり、書紀の原史料となったものに蘇我氏の伝記があり、その稲目と馬子の事跡をみると、二人が仕えた大王は別人であったと解釈でき、それを元に、稲目の時代の大王=欽明、馬子の時代の大王=敏達と二人の大王が存在したという「事実」が導き出されたのではなかろうかと思うのである。


そして、この時代に二人の大王が存在したことにすると、似てはいるが異なる、両方が同時に「真」であるとすることができない伝説を、別々の出来事とみなし、二人の大王に振り分ければ良いという副次的な利点が生じる。


そういうことだったんじゃなかろうか。


ちなみに興味深いことに、「推古13年」にも、銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の一丈六尺の仏像を各一体造りはじめたとある。十三という数字は干支が一巡して最初の干支になる年であるので、それが関係しているのかもしれない。なお聖徳太子は49歳で亡くなったとされているが、これも生年と没年が同じ干支になる。