邪馬台国の「馬」と蘇我馬子の「馬」

前に卑弥呼の「卑」や邪馬台国の「馬」という字は倭国が中原から見た蛮族に当たるので付けた蔑字ではないかという件について書いた。
卑弥呼の「卑」 - 国家鮟鱇

いまだにこれについての学者の見解をみつけることができないのだが、ネット上では、中国に「馬氏」という名家があるので蔑字ではないという意見があった。ところが、馬氏は「馬服君」に由来し、「馬服」とは「胡服」(北方遊牧民族の服)のことだから、馬氏自体は名家であっても「馬」という字は「蛮族」からきたということになるのではないか。


これを簡潔にいえば「蛮族にあやかった」ということになるだろう。


で、ふと思ったのが「蘇我馬子」。


『謎の豪族 蘇我氏』(水谷千秋 文春新書)に以下の記述がある。

謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)

謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)

もうひとつ人口に膾炙した説に、「蝦夷」・「入鹿」は本当の名前ではなく、大化改新以後に「逆賊」ゆえにつけられた差別的な蔑称という説がある(門脇禎二『「大化改新」史論』上)。ただ、これも今では支持する研究者は少ない。
(中略)
このほかにも「廬井連鯨」や「民直小鮪」、「置始連菟」等々、動物に由来する名前は枚挙にいとまがない。おそらくその旺盛な体力、生命力にあやかろうとしての命名であろう。

蝦夷」・「入鹿」が挙げられ「馬子」が挙げられていないのは、馬子が「逆賊」ではないからだろう。馬子ももちろん動物に由来する名前だ。だが単純に動物の体力・生命力にあやかろうとしたで済ましていいのかは多少思うところがないでもない。「馬氏」の「馬」は馬服に由来し、さらに北方遊牧民族の「野蛮」に行き着く。それと同様に考えれば「馬子」の「馬」も単なる動物の馬という以上に野蛮のイメージを含んだものであるかもしれない。


蘇我蝦夷の「蝦夷」は動物の「蝦」の字がついているけれど、もちろん「蝦夷」は「エミシ」のことでもある。エミシは日本列島の中央からみて東方・北方に住む人々の呼称ということになっているけれど、神武東征伝説では大和にエミシが住んでいることになっている。これをどう解釈するかというのが問題で、大和に東北のエミシが居住していたとする考えもあるけれど、大和自体が東方であって、そこの住人がエミシなのだと考えるべきだと俺は思う。すなわち実在する日本列島の東方・北方にいる人々をエミシと呼ぶ前からエミシという呼称が存在し、後に大和が中央になったのでそれより東方・北方の人々をエミシと呼ぶようになったのだろうと思う。しかるに神武東征伝説は史実ではないので、つまるところエミシというのは本来は神話上の存在であったのだろうと思う。


それを踏まえて蘇我蝦夷の父の馬子の「馬」を考えると、馬もまた中国では北方遊牧民族と密接な関係がある。だけではなく日本においても「甲斐の黒駒」の例にもあるように東方と密接な関係があるというのは見逃せないのではないか。
甲斐の黒駒 - Wikipedia


なんて思ったりして…


その上でさらに気になるのが蘇我氏の祖とされる武内宿禰だ。

二十七年春二月十二日、竹内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国のいなかの中に、日高見国(北上川流域か)があります。その国の人は男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」といった。
『全現代語訳日本書紀』(宇治谷孟 講談社

この武内宿禰の提言によってヤマトタケルの東征がなされるのであり、やはり東方と重要な関わりを持っているのだ。


(そうなると「稲目」と「入鹿」も考えなければならないわけだが、何も思いつかない)