平安楽土(その5)

あらかじめ断っておくけれど、俺は平安京に関する知識に乏しい。だが、素朴な疑問ならいくつもある。


その一つが、平安京の西側を「長安」、東側を「洛陽」と呼んだということだ。


素人の俺の素朴な疑問は、これはつまり平安京」というのは一つの「京」ではなくて「長安」と「洛陽」という二つの「京」の総称ではないかということだ。


※この時点で「そんなアホな」と思う人は以後スルーしてください。


平安京を二つに分けて、西を「長安」、東を「洛陽」と命名したのは嵯峨天皇らしい。根拠を知りたいところだけれど、これが良くわからない。先に紹介した、
書評/ 嶋本尚志「京都唐名考」(『博物館学年報』第35号 2003年)について
には、

長安が右京、洛陽が左京といった、自国を中国の都にみたてるという行為について、村井氏は嵯峨朝の唐風化政策に契機を見出す。岸氏は、京都の左右京には洛陽・長安の坊名が混在し、10世紀頃に固定化(963年の願文「洛陽長安貴賤上下」)すると指摘。

とあり、「嵯峨朝の唐風化政策」と見なされているようだ。ここにも書いてあるように異論もあるようだけど、一応、嵯峨朝から始まったということにしておく。


しかし、これを「唐風化政策」という視点だけで見てよいものだろうか?もし、嵯峨天皇が右京と左京を二つの「京」に見立てたのだとしたら、そこに政治的な意図があったのだと考えることが可能ではないのか?


と、このように考えるのは、この時代に平城上皇平城京への遷都の詔を出したという事件があったからだ。

薬子やその兄の藤原仲成の介入により、大同5年9月6日(810年10月7日)、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し、政権の掌握を図った。しかし、嵯峨天皇側に機先を制され、同月10日(10月11日)、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。これに応じて翌11日(10月12日)に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて翌日平城京に戻った。直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。これを薬子の変と呼ぶ。なお「薬子の変」の際、妃の朝原内親王と大宅内親王平城上皇に同行せず、弘仁3年(812年)5月、揃って妃の位を辞した。

平城天皇 - Wikipedia


何が言いたいかというと、嵯峨天皇平安京平城京という「二つの京」という状態と決別し、そのかわりに、平安京を「二つの京」の集合体とみなすことにしたのではないかということ。


国家に複数の都を置く制度を「複都制」という。
複都制 - Wikipedia


平安京以前の日本は「複都制」だったと言っていいだろうと思う。そして平安京以降も「複都制」の伝統は受け継がれていったのだろうと考えることは、それほど突飛な考え方ではないと思う(といってももちろんトンデモだけど)。


(つづく)


(追記11/29)
平安京右京の異称として「西京」がある。「西京」には、

西京(さいけい、さいきょう、にしきょう、にしのきょう、にしのみやこ)は、複都制において「西方にある都」を意味する語である。

西京 - Wikipedia
という意味があるのだが、単に西側だから「西京」と呼ばれているだけだというのが定説なのかもしれない。