平安楽土(その4)

平安京の西側を「長安」、東側を「洛陽」と呼んだというのは有名。

古く京都は、しばしば中国王朝の都となった洛陽に因み、京洛、洛中、洛陽などといわれた。元々は平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んでいた。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため京都を「洛陽」と呼ぶようになった。京の都に上ることを上京(現在は東京を指す)、上洛と言う。現在でも京都以外の地方(含東京)から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」ということがある。

京都 - Wikipedia

長安城は当時における周辺諸民族の模範的な都市であった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は平城京平安京にも強い影響を与えている。嵯峨天皇平安京の西を長安、東を洛陽と命名したが、時代の経過と共に右京が衰退し、左京に発展が集中したため、「長安」の名称は廃れ、「洛陽」が平安京の別称となった(「洛中洛外」「洛南」など)。ただし平安京を初めとする日本の都城には長安城と異なり城壁が建築されなかった。これは大陸とは違い騎馬民族の侵攻が無く、城壁は日本の都市には必要無かったためである(但し、豊臣秀吉は京都にお土居を築いている)。

長安 - Wikipedia


大抵の説明はこのウィキペディアの説明とほぼ同じステレオタイプなものであり、それ以上の説明や考察がなされているものはほとんどない。


俺がネットで見つけた興味深い記事は、
書評/ 嶋本尚志「京都唐名考」(『博物館学年報』第35号 2003年)について
のみであった。


専門書を探せば、それなりの考察があるんだろうけれど、一般に関心を持たれていないのは、単に唐風の風流な呼び方をしたんだ程度の認識だからなんだろう。


もしかしたら、その通りで深い意味などないかもしれない。


しかし、考えようによっては、このことは平安京の謎(平安京の基本構想や平城京から長岡京そして平安京への遷都の謎)を解く鍵になるかもしれないんじゃないだろうかと俺は思う。


(つづく)