平安楽土(その6)

嵯峨天皇平安京を右京(長安)・左京(洛陽)という二つの都市の集合と見做したのは複都制の伝統を受け継いだのではないかというのが前回の要約。誰かが唱えているんじゃなかろうかと思ったけれど今のところ見つからないのでトンデモかもしれないが続ける。


嵯峨天皇以前においては、この点についてどう認識されていたのだろうか。


平安京長安と洛陽を模して造られたといわれる。だが悲しいことに俺はその根拠を知らない。文書史料による裏付けがあるのだろうか?それとも考古学的にそう考えられるということだろうか?そういう肝心なことがわからない。ただし、俺のトンデモな考えでは「平安楽土」は長安の「安」と洛陽の「洛(楽)」が含まれていると思うので、平安京長安・洛陽を意識して造られたのだろうと思っている。


とはいえ、それだけでは、単に長安・洛陽を意識したというだけのことであって、嵯峨天皇の、右京(長安)・左京(洛陽)というような考えは無かったのではないかとも思う。すなわち、平安京はあくまでも一つの京であって、二つの京がくっついたものとは考えていなかっただろうということだ。「平安京」という名前には長安の「安」だけが含まれ、洛陽は含まれていない。複都制を意識していたら別の名になっていたかもしれないとも思う。


さらにいえば「平」の文字が気になる。平安京が一つの京だとしたら、もう一つの京は一体どこになるのか?それは平城京ではないのか?という疑問が俺には生じる。


定説では桓武天皇が遷都した理由は、一つは天武系から天智系への以降を意識していたということ。そしてもう一つは既存の仏教勢力と距離を置くためであるとされる。とすれば桓武天皇にとって平城京は不必要な京だと考えられるだろうし、実際に平城京は京としての機能を失っていった。


しかし、それは、桓武天皇が意図したことではなくて、嵯峨天皇の代になってからのことではないだろうかとも思うのだ。


(つづく)