平安楽土(その3)

平安京はなぜ平安京というのかというと、『日本紀略延暦13年11月丁丑の詔に

又子来の民、謳歌の輩、異口同辞、号して平安京と曰ふ。

とある。つまり桓武天皇が名前を決めたのではなくて「子来の民、謳歌の輩」が号していたということだ。


平安京(造成と呪) - Jinkawiki
という、文教大学の学生が作ったページには、

 平安京は、その名において、以前のどの古代都城とも異なっている。平城京長岡京が地名との結びつきの上に命名されたものであるのに対し、平安京は地名との結びつきが断たれている点において異質である。国王の徳の下に集った民衆や、首都の繁栄を謳歌する人々が異口同音に新京を平安京と呼んだことが名の由来であるとする説があるが、しかしそれは虚偽であろうと吉川(2002)はいう。

と「虚偽」であるとする、吉川真司氏の説を紹介している。


確かに出来すぎた話のようにも思えるけれど、その理由がわからない。お上が決めたのなら、お上が決めたと書けばいいではないか。何も隠すことはないのではなかろうか?


そう考えると、これは虚偽ではなくて事実ではないかと俺は思う。


ただし、民が「平安」と呼んだのには、それなりの理由があるのだろう。たとえば、京を建設するに当たって「平安」というコンセプト自体は存在していて、しかし、京の名前は地名で呼ぶのが慣例だったから、「宇太京」とか「葛野京」と命名する予定だったのだけれど、人々が「いっそのこと平安京でいいんじゃね?」って言い出したので、そうなったって話だったりとか。


あと、「謳歌の輩」というのは、先に書いた延暦14年正月の記事にある「平安楽土」の「踏歌」のことであって、延暦13年に既に歌われていたってことではなかろうか。すると、平安京の名前の由来はこの「踏歌」にあるのかもしれない。


で、素人考えとして、どうしても気になるのが、この「平安楽土」という言葉は文字通りに読めば「平安」と「楽土」を寿ぐ歌ってことになるけれど、それだけじゃないのではないかと思うこと。


どういうことかといえば、「平安」には「長安」の「安」という文字が含まれている。そして「楽土」の「楽」は「洛」に通じ、すなわち「洛陽」の「洛」なのではないかということ。
※(「楽」と「洛」は通じるのか気になったので調べてみたところ、『漢書地理誌』の「樂浪郡」の項に「樂音洛。浪音狼。」とあった)
漢書地理


平安京が「長安」や「洛陽」をモデルにしたといわれている。
※右京を「長安」、左京を「洛陽」と称したのがいつ頃からかについては、嵯峨朝とする説がある一方で異論もあるらしい。
書評/ 嶋本尚志「京都唐名考」(『博物館学年報』第35号 2003年)について


「平安楽土」に「長安・洛陽」が含まれているというのは、いかにもありそうな感じがする。けれども誰か既に言ってないかと検索してみたところでは見つからず、これもやっぱり俺のトンデモ説。



※ついでに、先に「平城京」があって、「平」の字がつく「平安京」ができたのは、平安を願ってつけたら、たまたまかぶってしまったということなのか、それとも意識してつけられたのかってのも(誰でも思いつくだろう思う素朴な)疑問なんだけれど、それについての考察も今のところ見つからない。


※「平氏」の「平」の由来にも関わってくるだろうと思われ。
平氏 - Wikipedia

「平」という名称の由来は諸説あり、高望王の時に朝敵を討ち平らげたため「平」の姓を賜った[1] との中世の伝承がある。しかし、有力な説は太田亮が唱えて藤木邦彦・佐伯有清らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武平氏の祖である桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(和訓:多比良)」と名づけたとするものである。また、安田政彦はこの説を支持しつつも、源氏・在原氏と同様に中国古典からの出典も存在した可能性について指摘している。