平安楽土(その9)

平城京廃都について調べていたらものすごい記事を見つけた。
〝長岡京遷都論に影響〟 藤原仲麻呂邸宅「田村第」(平城宮跡の散歩道)


2007年10月8日の毎日新聞の記事で、平城京にある藤原仲麻呂の邸宅「田村第」が長岡京時代に宅地割りされていたというのだ。


それに対する学者の解説。

 舘野和己・奈良女子大教授(日本古代史)は「長岡京遷都以後の平城京の土地利用の事例があまりないだけに、今回の遺構は遷都後にも平城京にはたくさん人が住んでいた証拠。大変面自い事例」と話す。
 金子裕之・奈良女子大特任教授(考古学)ほ、長岡京の「遷都」そのものを疑う立場。「長岡京遷都で平城京が廃都したなら、長岡京時代に宅地割りしたこと自体矛盾する。長岡京は副都で、首都はあくまで平城京だったのだろう。長岡京の遷都について論議を呼ぷ発見だ」と評価。「土地の細分化は平城宮から遠い八条、九条など南の方が顕著。それが平城宮の近くで確認されたのは珍しく、平城京の宅地利用の形態が大きく変化したことを示すのかも」と指摘する。


特に金子裕之教授は長岡京の「遷都」そのものを疑う立場だというのは興味深い。


俺は長岡遷都はあったと思う。ただし、それは延暦3(784)年ではなく、喜田貞吉が指摘する延暦7(788)年が正式な遷都であったのだろうと考える。それまでは長岡京は副都であっただろう。


そして、長岡京が首都になった後も平城京は副都として存在し、平安京に遷都した後も副都であったのだと思う。


その後、大同5(810)年に平城上皇平城京に遷都を宣言したのも、平安京の廃止を意図したものではなく、平安・平城の複都制を完成させるためだったのだろう。


しかし、嵯峨天皇はそれに反対した。それは財政支出が大きすぎるからというような理由ではなかっただろうか。そして薬子の変平城上皇が出家して、この時に平城京は廃都になったのではないか。


だが、複都制の伝統を完全に否定することはできず、代替措置として平安京右京・左京を二つの京と見做すことになったということではないのか…


まあ、これは俺のトンデモ説にすぎないんだけれど、しかし、俺のトンデモだと思ってた、長岡京時代に平城京は廃都になっていなかったという説を学者が主張していたというのは、本当に驚いた。


※金子裕之教授は2008年にお亡くなりになったそうだ。非常に残念だ。