馬に宿りし皇子

調子に乗っていつものようにトンデモ説を書いてみる。


久米邦武博士の『上宮太子実録』を流し読みしてたら興味深い考察が載っていた。聖徳太子の母は「間人皇后」で「はしひと」と読むが「まひと」とも読め、訓はまちまちである。元々「間人皇子」であったのを「まやと」と読み、それを「厩戸」に通わせて付会説をなしたのではないかという話。


俺は初めて目にした説で、検索してもそれらしきものが見つからないのでメジャーな説ではない模様だけれど面白い。


しかし、俺はこれをさらに発展させたトンデモ説を思いついてしまった。


厩戸皇子の母は「馬」(馬人)ではないのか


和泉式部の母は鹿だ(という民間伝承がある)。安倍晴明の母は狐だ(という伝説がある)。また、ウガヤフキアエズノミコトの母は鰐である。聖徳太子の母が馬であったとしても不思議じゃない。


もちろん、間人皇后は欽明天皇の第三皇女であるからして、そうなると天皇の子供が馬であるということになってしまって不都合なことになってしまうんだけれど、そういうことを無視した独立した伝説があった可能性もあるんじゃなかろうかと。そして厩戸皇子は馬の腹に宿った皇子だからウマヤドリ皇子だという伝説があったんじゃなかろうかと。


まあ、かなり思いつきなんだけれど…


しかし、ここで気になるのが、孝徳天皇の皇后「間人皇女」。

この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。

金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか

〓於金木 吾飼駒當無出兮 吾之駒至今何以為所獲

皇女が夫である天皇を離れ葛城皇子と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。

間人皇女 - Wikipedia


近親相姦云々よりも、間人皇女が「駒」に譬えられていることがとっても気になるのであった。


※ちなみにこれが「異類婚姻譚」を踏まえた歌だとすれば、「人見つらむか」は「見るなのタブーを犯して、正体を知られてしまったので、いなくなってしまったのだろうか?」という意味で受け取ることができるかもしれないなんて思ったりする。