夫婦別姓論議と自由

最近また夫婦別姓に関する議論が盛んだ。


今回は「自由」と絡めて議論されているようだ。こことか。
エヴァ最終話に学ぶ夫婦別姓反対の心理 - ビジネスから歩み去る有村


ところで、今議論されている夫婦別姓問題とは、民法を改正すべきか否かという問題である。すなわち、国家が夫婦別姓を認めるか否かという問題であり、つまり、熱心な夫婦別姓反対論者も、賛成論者も、国家による姓の管理に重きを置いていて、それを当然の前提のようにしているように見える点で似たもの同士のようにもみえる。


自由を云々するのなら、そもそも何で国家に姓を管理されなきゃならんのだとか、国家に規制された姓の使用方法は必要最小限であるべきだとかいう問題提起があってもよさそうだと思うけれど、そういうのはあまり見かけない。そこで議論されている「自由」は見様によっては飼いならされた自由であるようにもみえる。


もちろん、「社会的公正が必要という考えから極度の貧富の差の解消や富の再分配、偏見・差別などを防ぐ制度的保障を重視し、古典的自由主義に含まれる自由放任や市場原理主義に反対して政府による介入を含む方法でその修正を図るものである」という社会自由主義的な意味での「自由」という考え方もある。


おそらく、ここで自由を絡めて議論している人の「自由」とは、そういう意味での「自由」なんだろうとは思う。ただ、それをちゃんと自覚しているのかというと、怪しいところもある。