自由主義の要点?

なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1 | SYNODOS -シノドス-


(まず断っておくけれど、俺はド素人であるからし自由主義の哲学について詳しく知っているわけではないし、自由主義の経済学者が何を言っているのかについてもそんなに知識があるわけではない。それとベーシックインカムに反対の立場ではない。積極的に賛成するわけでもないけれど)


はてなブックマークの人気記事でこのタイトルを発見して面白そうなので読んでみようと思ったのだが、最初の

──1970年代までの国家主導的なやり方が世界中で行き詰まったのは、うまくいかない理由があった。それを指摘した自由主義的な経済学者の巨匠たちが言っていた要点は何だったのか。

それは「競争がないとみんな怠けて駄目になる」といった議論ではなかった。それは、「リスクと決定と責任が一致しないと駄目になる」という議論だった。ここから、「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」ということが導かれる。

というところまで読んで、それから先に進めなくなってしまった。


本当に「自由主義的な経済学者の巨匠たち」はそんなこと言っているんだろうか?これは俺が「自由主義」だと思っているものとは違うもののように見える。


最も違和感を持つのは「それにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ」の部分だ。


これには国会議員や官僚や学者などより民間人の方が「真実」を知っている。というようなニュアンスが感じられる。そこが引っかかるのだ。果たして自由主義にそのような考え方があるだろうか?むしろそういう考え方に反対するのが自由主義ではないのか?


左翼思想は(少なくとも過去においては)理性を絶対視していた。その論理に従えば絶対理性による統治であれば統治者が平民であろうと王であろうと関係ないという考え方すらあった。ではなぜ王を否定し人民が統治しなければならないかといえば、論理的には王政でも構わないとはいえ、人民こそが絶対理性を知るものだと考えられたからではないだろうか?そう考えれば「それにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ」という言葉は、そういった思想の延長戦上にあるように思われる。


しかし俺の知る「自由主義」はそのような考えの対極にある。つまり自由主義とは「絶対理性など存在しない」という思想だと思っている。


当然だが「絶対理性」は一つしかないので、絶対理性が存在するという考え方においては、それによって良くないことが起きても、絶対理性を否定することが困難である。絶対理性がコロコロと変わってしまっては絶対理性ではなくなってしまう。


一方、絶対理性の存在しない自由主義において重要なのは多様な価値観である。つまり、絶対的なものなど存在せず、どれが正しくてどれが間違っているのか判断が不可能な状況において、ある考え方が悪い結果をもたらしたとしても、それで全てが否定されるわけではなく、他の考え方が生き残っている世界である。


経済でいえば、国家という単一の権力が全てを主導する世界よりも、民間の多様な主体がそれぞれの価値観で行動し、その中には失敗するものも存在するけれども、成功するものもでてくる。単一の価値観で動く社会よりもこっちの方が優れているというのが自由主義の経済学であろうと俺は認識している。


したがって自由主義において重要なのは民間人が「それにかかわる情報を最も握」っているということではなく、多様な価値観を持つ人々が多様な価値観による行動を取ることであろう。