松尾匡氏が言う
──1970年代までの国家主導的なやり方が世界中で行き詰まったのは、うまくいかない理由があった。それを指摘した自由主義的な経済学者の巨匠たちが言っていた要点は何だったのか。
とは、過去記事を見るとハイエクのことらしい。
⇒ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か | SYNODOS -シノドス-
『ハイエク全集』(春秋社)第3巻に
そのことから当然に、最終的な決定は、これらの状況をよく知っている人々に、関連する諸変化とこれらの諸変化に対応するためにただちに利用し得る資源について直接知っている人々に、任せられなければならないということになるであろう。我々はこの問題が、この種の知識のすべてをまず中央委員会に伝達し、その委員会がすべての知識を統合した後に指令を発するという形で解決されるであろうと期待することはできない。(同上書116ページ)
こう書いてあるそうだ。これをもって松尾氏は
「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」
と解説しているわけだ。確かにそのように読めなくもない。
しかし、ハイエクが言いたいのは民間人が情報を最も握っているから任せよということではないでしょう。ハイエクが最も言いたいのは
我々はこの問題が、この種の知識のすべてをまず中央委員会に伝達し、その委員会がすべての知識を統合した後に指令を発するという形で解決されるであろうと期待することはできない。
ということだ。といってもまだ説明不足なのだろう。松尾氏はこれを
変化というものがなくて、前もってはっきりした長期計画を立てることができて、みんなそれを忠実に守って、それ以降は重大な経済決定をしなくてもいいというのならば、中央計画経済でもやっていけるけど、実際には、しょっちゅう無数の予期しない出来事が起こるものです(*8)。それらは統計的に相殺される性格のものではないのだから、その都度現場で適切な判断をするほかありません(*9)。
などと解釈している。まあ計画経済には確かにそういう面もあるけれど、それでは
……合理的経済秩序の問題のもつ独特な性格は、まさに次の事実によって決定される。すなわち我々が利用しなければならない状況についての知識は、集中され、もしくは統合された形で存在することは決してないのであり、むしろすべての個々別々の個人が持っている不完全で、かつしばしば相互に矛盾する知識の切れ切れの断片としてのみ存在するという事実がそれである。従って社会についての経済問題は……誰にとっても完全な形では与えられていない知識を、いかに利用するかという問題である。(同書108ページ)
で何を言っているのかを理解できていないのではないか?
ここでハイエクは
我々が利用しなければならない状況についての知識は、集中され、もしくは統合された形で存在することは決してない
すべての個々別々の個人が持っている不完全で、かつしばしば相互に矛盾する知識の切れ切れの断片としてのみ存在する
と記しているのだ。
ここで言っているのは「単一の価値観の否定」であり、「集中の弊害」ということでしょう。
やはり知識の有無で判断する松尾氏はズレているとしか思えない。