自由主義の要点?(その7)

さて松尾氏の

「正しい行動」の「正しい」という意味が何を意味しているのかよくわからないのですが…。
ユーザーのニーズに合致する事業という意味ならば、たしかにその通りですけど、それを目指す使命感を持っているのはあらゆる資本主義企業家も同じだと思います。(「社会全体に奉仕するための」という言葉も今ひとつよくわかりませんけど。)

という質問について。俺は、

それを別の言い方をすれば、社会を構成する一人一人が「自分がどう行動すれば社会のためになるのかを正しく認識している」ということになる。ただし「正しく認識している」というのは各自の多様な価値観の元に「正しい」と思ったことをするというのでは、その人にとっては正しく思えても、他の人にとっては正しくないということもあるわけだから「正しい」というのは「絶対的に正しい」という意味である。

と書いた。


これはまさに『新版 個人主義と経済秩序 ハイエク全集 1-3』(春秋社)でハイエクが言っていることとほぼ同じ意味である。

しかしながら、多数の人間によって、同時にではあるが、独立に決められる計画については状況は異なる。まず第一に、これらの諸計画全部が実行されうるためには、これらの諸計画が同じ一連の外部的な予想の下に立案されたものであることが必要であるが、もしさまざまな人びとが各自の計画を相互に矛盾する予想の下に立案したのであるとしたならば、どのような一連の外部的な出来事もこれらの諸計画全部の実行を可能にすることはできないであろう。そして第二に、交換に基礎を置く社会にあっては、各人の計画は、他の個人の間でそれに対応する行為がとられる必要のあるような行為を含むものになるであろう。それは次のことを意味する。すなわち、もしさまざまな個人が立てる各々の計画がすべて実現されるということが考えられるためには、これらの諸計画は特別の意味において相互に矛盾がないものでなければならないのである。あるいは、これと同じことを違った言葉で表現すれば、ある個人が、自己の計画の基礎とする与件のなかには他人が特定の仕方で行為するであろうという予測が含まれているであろうから、さまざまな諸計画が両立するためには、ある個人の諸計画は他の個人の諸計画のための与件を構成する諸行為を正確に含むものであることが必要不可欠なのである。(P55)

個人が(全体のことを考えて)「正しい」と思っていても、他人がそれと同じことを「正しい」としているとは限らない。個人の「正しい行動」が他人の「正しい行動」を邪魔することもありえるのである。したがって社会全体にとって「正しい行為」をするためには、各人の計画が相互に矛盾したものであってはならないのである。すなわち全ての人の計画の前提には単一の価値観がなければならないのである。


それが中央当局が示す単一の価値感であろうと、個人個人の高度な理性によって誰でも同じ結論に到るとされる「絶対真理」であろうと同じことである。そんなものは実際には人間にわかりようがないものなのだから。