「保守」の言う「歴史」とは何か

婚外子差別も夫婦同姓も「日本の伝統」ではない 歴史を知らない「保守」の劣化:JBpress(日本ビジネスプレス)


この池田信夫氏の記事はこの前の記事とほぼ同じことが書いてあるんだけれど、やはり俺は池田氏の考える「保守」というものに激しい違和感を持つ。


そもそも池田氏は姓と名字を混同しているようにみえるが、それはこの際おいといて、そこで言う「歴史」とは学術的な意味での「歴史」だ。すなわち学者が歴史史料を精査して「歴史的事実」と認めたもののことだ。「歴史を知る」ためには教科書や歴史研究書などを読んで学ばなければならない。


しかし「保守」のいう「歴史」とはそのようなものだろうか?もしそうだとしたら学の無い者は「保守」を称する資格がないということになりはしないか?


俺はそんなことは断じてないと思う。「保守」のいう「歴史」とは「学術的な検証によって認められた歴史的事実」のことではないと思う。「保守」のいう「歴史」とは何かといえば「共同体の多数が保有する共通認識としての歴史」のことだと思う。それが学術的に正しいか否かということは関係ない。その歴史が「神話」であろうと何であろうと問題ない。


もし「保守」の持つ歴史認識が学術的な歴史認識と異なっているとしたら、それには理由があるはずだ。その理由を「単なる無知のせい」とするのが「理性主義者」だ。それを根拠にして積極的に伝統や習慣を破壊したのだ。


だが「保守」はそう考えない。たとえ学術的な歴史的事実と相違しているとしても、それが「歴史」として信じられているのには理由がある。その理由が何かというのは、多種多様な要素が複雑に絡み合って形成されているので、人間の理性で簡単に原因を決め付けることには慎重でなければならないと考えるのが「保守」というものだろう。

偏見は諸国民や諸時代の共同の銀行・資本であり、そこには潜在的な智恵が漲っている。したがって、その偏見がより永続したものであり、広く普及したものである程好ましいものである。各人が私的に蓄えた僅少な理性よりは、共通の偏見に従ったほうがよい。言い換えれば、偏見の衣を投げ捨てて裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性が折り込んである偏見を継続させる方が遥かに賢明である。

エドマンド・バーク - Wikipedia


夫婦別姓」の問題を「学術的に認められた日本の伝統か否か」だけで判断するのは断じて保守の思想ではない。夫婦別姓」が日本の伝統というのが無知による誤解であれ何であれ、そう信じている人が相当数存在するという現実を重視し、それには何らかの理由があると考えるのが「保守」というものだろう。