奴隷は自分を縛る鎖の出来を自慢する

Togetter - 「東浩紀氏、「自分を縛りつける鎖のできを自慢する奴隷」の譬えに言及する」


「奴隷は自分を縛る鎖の出来を自慢する」ということわざの意味を巡る議論なんだと思うんだけれど、俺が考えるにこのことわざの意味は「奴隷は自分を縛る鎖の出来を自慢する」ってことだと思う。


つまり事実を述べたに過ぎないってこと。「水は温めるとお湯になる」というのと同じ。そこから何を読み取るのかは読み手次第じゃないのかな?


コテコテの自由主義者なら、そこに滑稽さを感じるのかもしれないけれど、共同体主義の解説に、

自由主義が想定する人間観とは、共同体主義者によれば、特定の共同体の伝統や慣習から切り離された、いわば「原子」のような個人である(`atomism'と批判される)。この個人は社会契約によって自由に社会から出たり入ったりでき、社会の価値観とはまったく無関係に「善き生」の構想を作ることができるとされる。そればかりでなく、個人の性別、人種、家族、等々の属性は「偶然的」で「切り離すことが可能」なものと考えられ、個人はこうした属性なしに人格あるいはアイデンティティを形成することができると考えられる(「負荷なき自我」`unencumbered self'と批判される)。要するに、自由主義者は個人を共同体からあまりに切り離して考えすぎだ、ということである。これは、普遍性を志向する自由主義が持つ没歴史的(ahistorical)なアプローチに対する批判とも言える。

共同体主義とは - はてなキーワード


とあるように、個人と、生きていく上で避けられないはずのそれらの「属性」とを極端に切り離して考える自由主義者に対する批判もある。俺もそれに同意する。


そんなわけで、このことわざを見て、「奴隷を嘲笑する人」もいれば、「自分も奴隷なんだと悲観する人」もいれば、「自分が奴隷だと気付かない人を嘲笑する人」もいれば、「奴隷の振舞いを肯定的に捉える人」だっているだろう。そして、それはその人の持つイデオロギー的なものが反映されてるんだろうと思う。



自分は覚悟を決めて奴隷をやっているんだ、なんていうよくある屁理屈(=罠)こそを戒めている警句なんだよ、これは。まあ、わからないひとにはわからないかもしれないが……。
hazuma
2010-09-29 16:25:08

まあ、なんだ、ごちゃごちゃしてるんで流れが上手く読み取れないんだけれど、少なくとも俺は「自分は覚悟を決めて奴隷をやっているんだ」というのを屁理屈だとは思いませんね。