どっちが左翼?

上に書いたことに関連するけれど、渡辺京二という人が網野善彦を批判しているのだそうだ。


『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』 (洋泉社MC新書)
渡辺京二氏の"網野善彦氏批判” より孫引き。

網野喜彦の言説はその典型である(注=古典左翼的な)。周知のように彼は中世における「無縁」の原理に注目し、領主制の束縛を逃れようとする民衆の自由を保障する場として様々なアジールの存在を立証することによって、中世を家父長制的奴隷社会とみなした戦後左翼史学の壁に鮮やかな穴を空けてみせた。しかしその場合、彼の主張の主たる含意は、そのような中世民衆の自由が武士階級による全国支配の完成を通して圧殺されたという点にあった。彼が徳川体制について、武士領主階級による民衆の徹底的な抑圧という全く古典左翼的イメージに固執しているのは、世界に類をみない専制などという形容からしても明らかである。(同書P.20)


こっちも参照。
渡辺京二による網野善彦批判その他 - オベリスク日録

農民たちにとっては、生きるためには誰かに服従するというのはむしろ歓迎すべきことだったのであり、それを「自由の放棄」だなどとは、間違っても考えることではなかった。


「中世」と「徳川の平和」の評価の違いは「自由とは何か」の意見の食い違いによるものでしょう。


で、網野氏の言う自由は「古典左翼的イメージ」かどうかは知らないが「保守」の考える自由に近い(網野氏は自称共産主義者らしいけど)。一方、渡辺氏はいわゆる「リベラル」ということになるだろう。

 政治や歴史の本によれば、今日われわれが享受している自由のルーツが啓蒙思想フランス革命にあることは、ほとんど自明の理とされている。今日では、この考えが広く受け入れられるようになったため、一八世紀の理性主義の弟子たちが、自由の名をひとり占めにして、自らリベラルを名のるに至っている。

それどころか、啓蒙思想フランス革命、及び今日の理性主義のリベラルに至るその弟子たちは、自由にとって許すべからざる敵の役を果たすことになった。基本的には、理性主義のリベラルこそ全体主義である。


(『イノベーターの条件』(P・F・ドラッカー著 上田惇生編訳 ダイヤモンド社


(追記)こんな記事見つけた。
自由とはなんだろう―アソシエーションと網野善彦をめぐって - 歴史家をめざす大学生のブログ