自由主義の要点?(その6)

『新版 個人主義と経済秩序 ハイエク全集 1-3』(春秋社)を借りてきた。


まず言いたいのは『社会における知識の応用』という論文の中でハイエク

世界のなかのどこかで起こることで、かれがおこなわなければならない決定にたいしてなんらかの影響を及ぼす可能性のないようなことはほとんどない。しかし、これらの諸事象それ自体について知ることも、またこれら諸事象の影響のすべてについて知ることも、かれにとっては必要ではない。
(中略)
かれにとって意味のあるのはつねに、かれが関係する特定のものの相対的な重要性の問題であり、これらの相対的な重要性を変更させる諸要因は、それがかれ自身の周辺の具体的な物に及ぼす影響以上には、利害のないものなのである。
(119ページ)

とちゃんと書いてあるということ。


それに対して松尾氏は

ハイエクは、この種の知識は「その性質からして統計にはならない」(*2)と言います。中央当局は経済計画を立てようとしたら、統計的情報に基づいて立てるほかないので、これらの知識は中央当局に伝えることがもともと不可能だということになります(*3)。だからこれらの情報が役に立つ使い方ができるのは、それを把握している現場の人が、すすんで決定に関与する場合だけです(*4)。

http://synodos.jp/economy/6578/2

「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」

http://synodos.jp/economy/8096/3
というような説明をしている。しかしこの説明で読者が上記のようなことを想像して理解することが可能だろうか?少なくとも俺には到底無理である。


ハイエクが言っているのは「そのような情報を主な判断材料とする現場の人間に任せるべきだ」ということだ。


現場の人間は現場で起きている問題に対処することだけを考えていればいいのであって、余計なことは考えなくていいのだ。そこが共産主義自由主義の違うところであって、共産主義においては常に全体に及ぼす影響を考慮しなければならないのであり、過渡期にあってそれを担うのが中央当局であり、高度な共産主義社会にあっては個人個人が理性でもってそれを認識しなければならない(到底無理な話だが)。一方自由主義はそのような役割を理性ではなくて市場機能が果たすとことになるのである。