自由主義の要点?(その9)

ともかく拙文の先を全部お読みいただきたいと思うのですが…。人々のニーズは、しばしば本人すら自覚できず、ましてや他人は誰も正確に把握できないものだから、推測してリスクをかけて事業として提案し、はずれたら提案者が自分で責任をとるというやり方をとるほかないということを言っております。
そのリスクにかかわる情報を最も握るというときの「最も」は、「すべて」という意味ではなくて、相対的に「最も」ということです。リスクがなくなるわけではないので、いろいろなやり方が多様に試されることで、結果としてニーズに近づけることができるともうしております

実にこの部分こそが俺が最も違和感を持つ部分である。


確かにこの説明だけを見ると、これは自由主義の説明になっているようにも見える。しかしハイエクが言っているのはそういうことではないと思う。今までは疑念だったけれど、この説明でかなりすっきりした。

そのリスクにかかわる情報を最も握るというときの「最も」は、「すべて」という意味ではなくて、相対的に「最も」ということです。

やはりどうも勘違いされておられるようだ。「最も」が「すべて」ではないことは最初から理解できます。しかし、この文から読み取れるのはつまり「中央政府よりも民間の方がより情報を握っている。すなわち相対的に優れているという意味に受け取れる。


しかし、ハイエクが言っているのは「最も握る」ではなくて「よく知っている」である。この違いは重要でハイエクは相対的な知識量の差を言っているのではなくて「情報の質の差」を言っているのである。


「ある特定の時と場所における特定の状況についての知識」というのは中央当局にとってはむしろ不要な情報なのである。得ようとしても得られないのではなくて、その性質上排除されなければならないものなのである。


自然科学でいえば「水は摂氏100度で沸騰する」というような論理。それこそが中央当局が行うべきことなのである。そのために各地の水のデータを収集するとして、単にデータを羅列するだけでは意味が無く、そこで必要なのは「不純物を取り除き真水にすること」である。


しかるに「水」は太古から現在に到るまで「摂氏100度で沸騰する」ということに変化はないだろうが、経済は頻繁に変化するものなのだ。この変化に対応するためには、中央当局が必要としない「不純物の混ざった水」についての情報を持っている者に任せなければならないということだ。


なお、この「任せる」というのは、失敗したときに責任を取るということも含まれるだろうけれど、重要なのは自己の責任でもって決定し、その責任は限定されたものでなければならないということである。そうでなければ「しばしば相互に矛盾する知識の切れ切れの断片としてのみ存在する」情報を矛盾を解決せずに矛盾したままで利用することは不可能だからだ。共同体にあってはあらゆる行為は他に影響を与えずにはおかないものである。中央当局(あるいは一般意志を体現する個人)はある決定をするときにはそれが共同体のどこかに与える影響を考慮して決定しなければならないのである(それを完璧に行うのは到底無理だが)。



それからどうしても不審なのは

このような知識のことを、ハイエクは「ある特定の時と場所における特定の状況についての知識」(*1)と言っています。それは例えば、教科書に書いてあるわけではなくて、現場で習熟して会得するしかない知識です。あるいは、具体的な誰彼の人間関係についての知識とか、そこここの土地勘とか、あれこれの具体的な事情のことです。

ハイエクは、この種の知識は「その性質からして統計にはならない」(*2)と言います。中央当局は経済計画を立てようとしたら、統計的情報に基づいて立てるほかないので、これらの知識は中央当局に伝えることがもともと不可能だということになります(*3)。だからこれらの情報が役に立つ使い方ができるのは、それを把握している現場の人が、すすんで決定に関与する場合だけです(*4)。

という説明である。俺はどうも松尾氏が「その性質からして統計にはならない」の意味を勘違いしているのではないかと疑うのである。「その性質」というのは上に書いたように「不純物を取り除いて一般法則を導き出す」という「性質」の故に統計にはならないという意味で理解しているのだが、松尾氏はどうも「匠の技」的な意味で言葉や数値で説明できないものとして理解しているのではないかと思えてしまうのだ(もちろんそういうのも含まれるだろうけれど)。ここのところ、はっきりしたことはわからないのだけれど少なくともそう読めてしまうということだけは言えるであろう。