自由主義の要点?(その3)

松尾匡氏が「今回の記事の先をお読みいただければ幸いです」とコメントしてくださったので先をざっと見てみたけれど、俺が問題視しているのはその先の方にも書いてある

それにかかわる情報が一番ある民間人の自由な判断にゆだねるほかないのです。

「情報が一番ある民間人」の部分であります。果たして、自由主義の経済学者はそんなことを主張しているのだろうかということです。


これはたとえば「気候対策」として「寒ければ厚着をし、暑ければ薄着をする」という原理原則があって、日本で真冬のときには厚着をする。しかし南半球では真夏であるから日本と同じに厚着をすれば余計に暑くなる。だから現場の気候を一番知っている現地の人に任せればよいというような単純な話ではないでしょう。なぜなら、地域によって気候は異なっていても「寒ければ厚着をし、暑ければ薄着をする」という原理原則は同じだからです。


その程度のことなら中央政府の役人を派遣しても同様の情報を得ることが可能です。いや、それでも現地住民の方が細かな気候の変化を感じ取れるということはあるかもしれませんが、自由主義の経済学者はそういう話をしているのでもないと思います。


問題はそんなことではなくて、世の中は複雑であって「寒ければ厚着をし、暑ければ薄着をする」というような普遍的な法則だけでは上手くいかないということでしょう。


すなわち、気候の問題は純粋に気候の問題だけではなくて、経済や文化などの問題も絡んでくる。「寒ければ厚着をする」という原理原則があるとはいえ、ろくに食べるものもなく餓死寸前の状況であれば、寒さなどより食べることを優先させなければならない。また同じ寒さであっても日本人には耐えられないと感じても、そう感じない民族もいるかもしれない。そんなことはいくら温度計を精密にしたところで何の意味もないわけであります。もちろん、この程度のことなら中央でも現地の事情を知ることも可能かもしれず、また「原理原則」を守りながらある程度の現地の裁量に任せるという手段もありましょう。


しかし実際の世の中はもっともっと複雑であり、そうなってくると「原理原則」自体が成立しないということになります。そんな状況では中央で統一的な指示を出すことは不可能であります。Aという現場ではXという方法が良いとされているのに、Bという現場ではそれと矛盾するYという方法が良いとされているという場合があるのですから。


そこで重要となっているのは「情報の質や量」ではなくて「価値観」が異なっているということでありましょう。中央政府という単一の権力が、お互いに矛盾する複数の価値観を持つことはできません。そしてそれができないからといってどれか一つを選択して全てに押し付ければ弊害が生じます。


だから「統一できる」という妄想は捨てて現場に任せようということでしょう。これは中央よりも現場の方が「正しい」方法で行動できるという意味ではない。そもそも何が(万人にとって)「正しい」のかがわからないのだから。


現場の人は中央政府と違って全体のことを考える必要はそれほどない。そのようなことを考える必要が無いからこそ、目の前の問題に対処する最適な方法をとることができる可能性が高まるということであって、結果的にはその方がむしろ全体にとっても良い結果をもたらすということでしょう。


つまり「情報が一番ある」ではなくて「限定された情報しか必要としない」ということが重要なのだと思いますけどね。それを経済学的に言えば各自が利己的に行動するということでしょう。