自由主義の要点?(その5)

ところで共産主義とは何か?俺はこれについてもそんなに詳しくない。共産主義の解説書など一冊も読んだことがないし、ネットで調べても今ひとつ俺の知りたいことがわからない。もっとも「共産主義とは何か」とは言っても、誰の唱える共産主義かとかいった問題があって一概に言えるものではないのかもしれない。そういうことはマルクス経済学者の松尾匡氏の専門分野であろう。


さてウィキペディアの説明によると、マルクスエンゲルス

各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会(共産主義社会)を形成する条件が生まれるとした。

共産主義 - Wikipedia
と主張したそうだ。


この「各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような」というところまでは、まるで自由主義の説明をしているかのようである。


しかし、もちろん共産主義自由主義は対極の関係にある。一体なにが違うのか?それこそが最も重要な点であると俺は思う。


さて、共産主義といえば共産党による一党独裁、あるいは共産党の中でも一部さらには唯一人の独裁者による強権国家が連想されるのであるけれど、共産主義思想においては、こういう状態は共産主義に到る過渡期の状態であり、共産主義が完成した暁には必要なくなると考えられているというのが俺の認識だ。間違ってたら指摘してほしい。


では、共産主義が完成するとどんな世の中になるのかといえば、「自由な個人が社会全体に奉仕するための自己の役割を認識して自発的に行動する社会」ということになるのではないかと思われる。そんな社会では各人は国家権力に命令されなくても自主的に最適な行動をするのであるから独裁者など必要なくなるのである。


それを別の言い方をすれば、社会を構成する一人一人が「自分がどう行動すれば社会のためになるのかを正しく認識している」ということになる。ただし「正しく認識している」というのは各自の多様な価値観の元に「正しい」と思ったことをするというのでは、その人にとっては正しく思えても、他の人にとっては正しくないということもあるわけだから「正しい」というのは「絶対的に正しい」という意味である。


つまり「自由な個人」というのは多種多様な価値観を持つということではなく。単一の価値観を持つということであり、それが「自由人の条件」なのである。信じがたいことかもしれないけれど、これがルソー以来の革新思想の根底にあるのは疑いのないところなのである。


しかし自由な個人が単一の価値観を持つというのは、「絶対真理」というものが存在し、それを人間は理解することが可能だという前提がなければ成り立たないのであり、そんなことは現実には不可能なのだ。「絶対真理」というものは空想に過ぎない。したがってそんな社会を目指せば、結局のところ全体主義に行き着くのだというのが保守主義者の最も主張していることなのである。

各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会(共産主義社会)を形成する条件が生まれるとした。

という共産主義者の主張が、一見すると自由主義者の主張と極めて似通っているにもかかわらず、全く違ったものであるのはその点なのである。


それを踏まえて、

「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」

なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1 | SYNODOS -シノドス-
という松尾氏の発言を見るときに、国家よりも民間人に任せるべきという主張は、自由主義の専売特許ではなく、共産主義もまたそういう考えを持っているのであり、両者の決定的な違いは、「民間人」が社会全体に奉仕するための「正しい行動」をするという使命感を持っているかということになるのである。


すなわち単に、情報を中央よりも現場が最も握っているといっても、その情報を中央の意思に沿うように利用するためなのだという意味なら、そんなことを自由主義的な経済学者が主張するはずがないのである。


その肝心の部分に全く触れていないのは、省略しただけなのか(しかしそれで要点というのはおかしいだろうし、かつ特に重要でもない情報云々の話を入れる必要はないではないか)、それともそれを松尾氏が理解していないのか、そこを俺は問題視しているのである。


※ もちろんこんなことはベーシックインカムの議論とは直接関係のないことかもしれない。しかしこれは経済学者が書いた記事なのだから、関係あろうが関係なかろうが不審なものは不審と言いたいのである。