見えざる手

アダム・スミスの「見えざる手」とは何かが未だによくわからない。

人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。この利益は、例えば「莫大な利益を生み出し得る品物を生産する」といった形で事業を運営することにより、得られるものである。そして人がこのような行動を意図するのは、他の多くの事例同様、人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである。

見えざる手 - Wikipedia


その1

市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成されるとする考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成されると考えた。スミスは、価格メカニズムの働きにより、需要と供給が自然に調節されると考えた。

見えざる手 - Wikipedia


その2

「見えざる手」 (invisible hand) は本書の概念としてしばしば言及されるものである。この「見えざる手」の背後にある思想は、人々がその欲求と窮乏の追求を通して無意識的に自らの国を発展させるであろうという主張である。

諸国民の富の性質と原因の研究 - Wikipedia


その3

古典派自由主義経済学は、利己的に行動する各人が市場において自由競争を行えば、その意図しない結果として(「見えざる手」)、公正で安定した社会が成立すると考える思想(→アダム・スミス)である。

自由主義 liberalism - Wikipedia


その4

同世代のスコットランドアダム・スミスは、のちに彼の書籍『国富論』において“見えざる手”(an invisible hand)なる表現をもって著名となったが、無駄のない・合理的な摂理としてのsocial economy(社会のエコノミー)・the natural course of things(自然の成り行き)はバークにとっても重要な概念であった。

バークは、人間の文明社会は、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”で形成されたものであっても、人間の知力で“設計”されたものではないと考え、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業において開花し発展・成長した偉大なものが文明の社会だと把握する(『イギリス史略』)。

エドマンド・バーク - Wikipedia


これらが同じことを言っているとは俺には思えない。


ところでアダム・スミス自由主義者なのか保守主義者なのか?現代日本で両者は混同されていることがままあるが、昔は自由主義保守主義は鋭く対立していた。


これはあくまで『国富論』さえ読んでいない無知な俺の推理にすぎないが、アダム・スミス保守主義者だと思う。なぜかといえば、「見えざる手」によって導かれる社会というのは、神は別として我々には予測不可能な社会であると思うからだ。


言い方を変えれば、「現在の我々が理想とする社会」を実現するために「見えざる手」の導きが必要だという話ではないのではないかということだ。


※ 人々が理想とし目標とする社会自体が絶対的・普遍的なものではなくて「見えざる手」によって変化するのである。



最初の解説にある「人が全く意図していなかった目的」というのが、利己的な行動が社会にとっても(同時代の価値基準で)良い結果になるという意味なのか、同時代の人にとっては全く予想できなかった新しい社会が来るという意味なのか?一般的に前者の意味で理解されているようだけれど、後者の意味でも通じるように思われる。『国富論』読んでないから誤解しているかもしれないけれど。