動物農場(その2)

動物農場』はスターリン主義への痛烈な批判だといわれる。だが開高健は「左右を問わず、あらゆる種類の革命が権力奪取後にたどる変質の過程についての寓話」だと解説する*1。それはその通りだが、そのことは社会主義全体主義を招く要素があることの否定にはならない。そうではなくて社会主義が内包する全体主義の思想的傾向は社会主義だけにあるのではないということだ。


ハイエクの『隷属への道』(春秋社)より

もちろん、まだ英国やその他の国のいわゆる「進歩主義者たち」は、共産主義ファシズムとはまったく異なる両極端を代表する考え方だという、誤った理解を頭から信じこんだままでいる。だが、その一方で、人々は次第に、この二つの新しい専制体制は、実は同じ思考的傾向がもたらした結果なのではないかと、ひそかに思い始めてもいる。

実際、ドイツやイタリアにおいて、ナチスやファシスタは多くのものを発明する必要はなかった。生活のあらゆる側面に浸透していくこの新手の政治的教化運動は、すでに両国では社会主義者によって実践されていたのである。すなわち一つの政党が、「揺り篭から墓場まで」個人のすべての活動を面倒見、すべての考えを指導しようとし、すべての問題を「党の世界観」の問題とすることを欲する、という理念は、社会主義者によって最初に実践されたものなのである。

全体主義はこのような思想から発生するのだ。『動物農場』が描き出した社会はまさにそんな社会だ。


ところで、こうしたことは共産主義国家やナチスドイツだけに起こりうることではない。

自由に慣れ親しんだ社会では、このような犠牲を払ってまで意図的に保障を求めようとする人は少ないにちがいない。しかし、現在あらゆる国で進められている政策は、保障という特権を時にこちらのグループへ、時にあちらのグループへ、とばらまいているために、その保障を獲得したいという要求が煽られて、自由を愛する気持などどこかへ行ってしまうという状況がどんどん生まれてきている。一つのグループに完全な保障が与えられるたびに、他の人々は必然的に不安定になっていくからである。

このような意味で現代の自由主義国においても全体主義の芽は存在するのである。