⇒ 唯物史観の残滓
『院政とは何だったか』(岡野友彦)によると、マルクス主義歴史学の「世界史の基本法則」では世界の歴史は「原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義」へと発展するとされる。
それを日本にあてはめて日本の「封建制(中世)」はいつ始まるのかという議論がされた。これを「日本封建制(成立)論争」と呼ぶそうだ。
論争に火をつけた最初の研究者は石母田正という人で、荘園制を「古代的」と評価した。
⇒石母田正 - Wikipedia
それによって、荘園制が打倒されて純粋な封建制が確立するというのが歴史学の主な認識となり、それ(「封建革命」と呼ばれる)はいつなのかという論争がはじまった。
そこで安良城盛昭という人が太閤検地封建革命説を主張した。これにより日本の古代と中世は「奴隷制社会」ということになった。
⇒安良城盛昭 - Wikipedia
⇒封建制 - Wikipedia
なお、同じくマルクス主義歴史学者でありながら黒田敏雄という人がこれを批判した。それが「権門体制論」なのだそうだ。
⇒権門体制 - Wikipedia
さて「太閤検地封建革命説」を採用すれば、日本の古代を終了させた「革命的英雄」は太閤検地を実施した豊臣秀吉ということになるだろう。
(彼らは封建制が良い世の中だと考えたわけではない。しかしマルクス主義史観によれば共産主義が実現するためには封建制は必要不可欠のものであるから、奴隷制を打倒して封建制を打ち立てた人物は歴史を「前進」させた英雄ということになる)
ところが一般に「革命的英雄」といえば、秀吉ではなく織田信長がそうみなされている。これは比叡山焼き討ちなどの行為が旧体制の破壊として印象に残るというのもあるだろう。
だけど、俺は豊臣秀吉が戦前・戦中において英雄であったからという、純粋に歴史学として考えれば無関係な感情的・政治的要因も大きかったのではないかと思う。秀吉のしたことは信長のやろうとしたことを継承したのだと考えれば、信長を「革命的英雄」として高く評価して、戦前・戦中の英雄の秀吉を過小評価することが可能だろう。
これらを踏まえれば、『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』(谷口克広)の「中世」とはマルクス主義歴史学の「奴隷制」の言い換えであり、
秀吉の太閤検地ほど徹底していないながらも、検地を行って土地の所有関係を整理した。
と書いてあるのは、太閤検地がマルクス主義史観において封建制を成立させたものとして、つまり歴史を「前進」させた正しい行為として評価され、信長の検地は「正しい行為」としては中途半端であるけれども、太閤検地へと至る前の「段階」として、その先進性を評価しているということになるのだろうと思われる。