「寄船慣行」の謎

サン=フェリペ号事件について調べていて「寄船慣行」に興味を持った。そういう慣行があること自体は前から知っていたけれど詳しいことまでは知らなかった。


さてウィキペディアのサン=フェリペ号事件の記事に

廻船式目では第一条で難破船の積荷の扱いについて述べているが、難破船に生存者がいない場合はその資産を漂着地の神社仏閣の造営費にあててもかまわないと述べており、「海路諸法度」では漂着船がでて積荷を入手したものがいても、船主から請求があった場合、ただちに積荷を返さなければならないと述べている。

サン=フェリペ号事件 - Wikipedia


つまり難破船であっても生存者がいれば積荷の所有権は沿岸住民のものとはならないというわけだ。そういえば、難破船に生存者がいるにもかかわらず彼らを殺して土地の所有物としたという話を前に見たことがある。話としては知っていても今までは漠然と見ていただけだった。


さて、ここである疑問が浮かんでくる。


それは嘉元4(1306)年に起きた関東御免津軽船の積荷強奪事件である。

中世には寄船慣行が存在した。それは遭難して岸辺に漂着した船とその積荷は沿岸住民の物となる、という慣習法である。そしてそれは港湾に入港した船を漂着したと言いがかりをつけて船体と積荷を没収する事件が裁判記録や宣教師の記録に散見される。いわば中世の港湾は暴力と隣り合わせの場所であった。入間田宣夫氏は中世を「コネと暴力の世界」と評したが、それは港湾においても例外ではなかった。黒嶋氏が挙げている事例は、「関東御免」つまり鎌倉幕府のお墨付きを盾に入港料の支払いを拒んだ船に対して「漂倒船」だとして船体と積荷を没収した例である。 津料とは、金品を納めることによって自らの安全を保障してもらうためのものだったのである。その金額は在地の秩序に委ねられたものであった、と考えられている。在地慣行に支えられることで津料は独自の生命を保ち得たのであり、津料の禁止令が出されたこともあるが、その背後にある寄船慣行の禁止や、船舶航行の安全を遂行しない限り、その実効性は限定されたものになった。

「帆別銭ノート」を読む - 我が九条

入港した船を「漂倒船」だと言いがかりをつけて積荷を奪った事件だと解釈されている。


ところが単に入港しただけなら船員がいるはずだ。船員がいるのならいかに「漂倒船」だと言いがかりをつけても積荷を強奪することは法に反していることになるではないか。黒嶋敏氏はこの件に関して何の言及もしていないようである。


ちなみにネットで検索したら『安藤水軍史論序説』(佐藤和男 1988)という論文があった。
Hirosaki University Repository for Academic Resources: 安東水軍史論序説
も同様の解釈をしている。注目すべきはこの論文には

寄船流船者在所神社仏寺可為修理事、若其船於有乗者者船主可進退事

という「廻船式目」の条文が載せられているのだ。これこそがまさに船に乗員がいれば船主の進退(船主の所有物という意味だろう)という説の根拠となるものではないか。にもかかわらずなぜ佐藤氏はそこに触れなかったのだろうか?理解に苦しむ。


※なお『豊臣秀吉南蛮人』(松田毅一)に載る廻船式目第一条は

一、寄船渡船者其所之神社仏寺之可為造営事、若其船に水手一人にても残於在之者、可為其者次第事


関東御免津軽船には自動操縦装置が装備されていて誰も乗っていないのに港に入港したのだろうか?そうでないとしたら(当たり前だ!)、この事件はどう解釈したら良いのだろうか?


俺の貧弱な脳みそではそこのところが全く謎なのである。ただ俺の貧弱な脳みそからは、この事件というのは入港した船を「漂倒船」だと言いがかりをつけて積荷を奪ったのではなくて、(乗員は脱出したとかで無人で)本当に漂着したのではないかという考えが浮かんできてしまってどうしようもないのである…


なお、これもネットで見つけたのだが「函館市史」通説編1 3編1章3節-1によれば

嘉元4(1306)年、関東御免の津軽船20艘のうち1艘が、蝦夷地産の鮭および小袖を積んで、越中東放生津(ほうじょうづ)より能登をめぐって運航し、越前坪江庄下郷の三ヶ浦に漂到したという記録もあり(『大乗院文書』)

とあり、ここでは「言いがかり」などでは一切書いてなくて「漂到した」とはっきり書いているのである。